”偽善”とは善を偽ることを言います。[1]うわべだけの善行や、[2]悪行を隠したり繕うための善行がそれにあたります。[1]の場合、偽善に該当するならしない方が良いのでしょうか。

 

例1:Aは名声を得るために200万円の募金をした

 

例2:Bは周囲からの評判を得るべく人助けに奔走した

 

例3:Cは怨恨を抱いている法人Xを陥れるためにその不正会計を告発した

 

 例1~3は確かに善行にはなるものの本心からではありません。動機が他人のためではなく、もし報酬がなければそれをしなかったでしょう。しかし、それが悪いと言えるでしょうか。
 前提として、私自身は「善行をするなら相手の利益のためであって、下心の無い方が良く見える」ことは否定しません。「縁の下の力持ち」という言葉もあるように他人からの注目を集めることなく善行に徹する人は尊敬に値します。ところが、他人に認められたいがための功績の自慢をすればその人への世間評価は落ちるでしょう。「言わぬが花」です。

 

 しかし本来、善行を施すものが本心で何を考えていようと、直接に恩恵を受ける者にとっては関係がない筈です。それに、見返りの無い善行など困難であり、「善をするなら見返りを求めるな」とまで行くと美学に傾倒しすぎであり現実的ではありません。現代の経済社会は相互利益が追求され、自己犠牲を強いることの無いように構築されてきました。その中では見返りを求めるのが普通であり絶対的な善というものは稀です。もし偽善にあたる行為が悪として扱われれば誰も善行をしなくなります。「やらない善よりやる偽善」という言葉もあるように、偽善にあたるとしてもやらないよりはマシと言えるのではないでしょうか。

 

 他方、[2]の場合はどうでしょうか。

 

例4:Dは詐欺で得た利益の内、500万円を募金した

 

例5:Eは低利率の金銭貸借で多くの債務者の苦境を救ってきたが、それは賄賂の資金を確保するためであった

 

 例4と5は悪行が前提にあり、善行はそれを補完するためのものです。しかも、これらを認めると「善行をすれば悪行をしても良い」とされてしまいますから認めてはいけないでしょう。故意に第三者に損害を加えたり秩序を乱すことでする善行に価値などありません。

 

 また、他人に自主的な善を強いることは許されません。

 

例6:Fは自身が震災のための募金をしたことを主張して、募金をしていない者をSNS上にて批判した

 

 例6のように、本来自主的に行われるべき善を自分がしたからと言って他人に強いることは価値観の押し付けとも取れます(募金をしよう、という宣伝自体は別に良い)。本人が行った善行はとにかく、それを他人にも強いる行為自体は善と認められることはないでしょう。

 

 善と偽善の違いは紙一重でありますが、善行を行った者を直ちに偽善者呼ばわりして善行を萎縮させる行為に至ってはもはや悪としか言えません。言葉に囚われず、相互に利益を得られる社会が常に理想であるということです。