イエスキリストを久々に見た。
無防備な姿で十字架にはりつけられた有名な姿だ。
世の中で、いい意味で使われる言葉で
「脇をしめる」って言葉がある。
キリストはまるで逆だ。
格好だけの意味だが、
キリストさんは、脇が甘い・・・
脇をしめて、自分を守ることなく、警戒することもなく、気負いすることもなく、無防備に、いけにえだ。
もちろん脇をしめるって言葉を全否定しているわけではない。
人間は不完全なものだから、許しあって、共感しあって、愛し合わないといけない。
でも、そうは言っていても、自己愛に翻弄され、
生きる厳しさと肯定し、敵を作り、脇をしめて、警戒しながら、正当化して生きてる。
具体的な身の危険にはそりゃ警戒は反射的にするもんだが。
僕もそうだ。まちがいなく。
でもね、最近思うのだ・・・・・
そんな人間に誰がついてくる?って。
大きな理想や夢があっても、すべてをかけていない人に、誰が本気でついてくるって・・・・
付いてくるのは、おいしい汁だけを吸おうとする人や、
ちょっと熱いことが好きな連中ぐらいかもしれない。
ビジネスの基本ルールは、「約束」。
金の約束。だ。
それさえ守っていればいいもんではないと、最近つくづく思う。
金は、怖いもんだ。得るために嘘でも何でも、
犯罪にならない限り「生活のため」と正当化して、追い求める。
正確には私利私欲、贅沢のため、優越のためなんじゃなかろうか
経営者5年の俺だが、実際問題、うまくいってからは
愛というものをビジネスの片隅にしか置いてこなかった気がする。
いつからかうまく思い出せないけど。
人はいくつになっても、生物(なまもの)だ。生身だ。
感情に振り回され、信じやすい明日を信じて、困難をなるべく避ける傾向は年齢とともについてくるものだ。
相対性理論を、なんとなく理解してるが、
僕のまわりで一部、調子のよい人間が集まり、
調子の良さがバレルと相手のせいにして、去る図式ができていたのかもしれない。
付き合いの長い人との関係にはそんなことはないが。
なぜなら、僕が、夢や理想のための「いけにえ」sacrificeになる覚悟もなく、生きていたからだ。
尊敬している人がいる。
その人は、常に慈悲の心に満ちているように見える。
そして、ひとりひとりを実は信じてるんじゃないかと思う。
まだ若いのに、その人は、愛というものをちゃんとわかってる人に見える。
イエスキリストにはなれないが、
人を信じること、大事にすることは、いつからだって始められる。
明日から、人の心に耳をすまそう。
常識やビジネスのルールで人を理解せずに
まずは、自分も含めて、誰もが不完全で、弱いものなんだって、そこから考えよう。
多くの人は、自分の不完全さは、こっそり許している。
それが人間だから~って許せるものだ。
その物差しを他人にも持とう。
たとえ、相手が、自分を脅かす人であっても。
人は人の下に人を作りたがる。
優越感を、鎧のように纏って、どんどん耳が聞こえなくなっていくようだ。
静けさの中に身を置いても、都会の雑音が耳鳴りみたいに、ずっとなってて、
自分の本当の声にも、他人の本当の声にも気づかないことが多い気がする。
人生はリセットできない。
リセットしたがる人間が最近多いと方々で聞くけど。
でも人生はいつでもそこから新たな新鮮なスタートができる。
脇が甘くて、恐れず、
自分を[いけにえ]にできる自分でありたい。
ちょっとおかしな言い回しだけど、そんな勇気を持ちたいのだ