江戸時代の初めに、新潟県長岡市山古志地域を中心とした地域に越後二十村郷という地域が確認されている。

もちろん、江戸時代の初めに越後二十村郷ができたわけではなく、村の伝説によると平安時代より以前から村があったと言われている。

この地域は、山間の田に稲作を生活の中心として、また山間の畑に野菜を植えて生活していた。

この地域に、鯉と牛という動物が深く関わってきた、動物とともに生活する文化であった。

牛は、もともと稲作のため棚田の耕作に使役してきました。

また荷物の運搬に使役してきました。

また山間の棚田の、稲作の用水の確保のため野池を作り、灌漑用水としていた。

その野池、棚田に、食用に、鯉を飼い、冬場の越冬のための食材としていた。

鯉は、雑食性であり、野池や棚田の雑草や藻や、昆虫などの小動物も食べる。

そのため野池だけでなく、田の除草のために棚田にも放されていた。

とりたてて、餌をくれなくても、雑草などを食べるため飼育が容易である。

また餌を十分にやり、栄養が十分であれば、生涯成長して、大きくなる性質があり、食材としても、非常に優秀であった。

また鯉は、大変に栄養豊富であり、昭和の30年代までは、産後の女性の栄養食として、また病人のための栄養食としても食べられていた。

冬場の二十村郷の地域に、食材のない時に栄養豊富な、美味しい鯉が地域の食材として選ばれていたことは、地域の先人の知恵によるものである。

私の子供の頃、50年ほど前は、鯉、錦鯉はご馳走であり、秋の鯉上げのシーズンともなれば、鯉のから揚げ、鯉のつくだ煮にして、楽しみにして食べていた、山間地域で、生の魚など食べられなかった時代に、栄養豊富で美味しい鯉を子供の頃から食べさせて頂いたことに、二十村郷の先人に感謝しなければならない。

このように、牛と鯉は、二十村郷の地域の生活のために、必要不可欠な、動物であっが、

二十村郷の地域の先人は、この動物を、可愛がり娯楽のレクリエーションとしても楽しんでいた。

牡牛は、牡牛同士で、角を突き合わせ、力比べをする習性があります。

それを.二十村郷の地域の先人たちは、地域の行事として娯楽として楽しんでいた。

牛の角突きの伝統行事であります。

 千年の歴史があると、二十村郷の地域の人々に言われてきたように、古来より行われてきたものと思われます。

闘牛の起源の示す文献として、中国の史記、前漢書があげられます 、

前漢書によると、西暦紀元前1世紀頃の前漢の皇帝武帝が、闘牛を好んだという記述があります。

中国東北部の少数民族、(中国は中華思想の国であり、蛮族と呼ぶ)の習俗として、牛を角突き合わせて楽しむ闘牛の習俗があった。中国では、角であらそうと書いて角ていと呼んでいた。

その角ていの習俗が少数異民族のあいだで行なわれていた。

それが紀元四世紀から五世紀頃、稲作文化の日本への伝来により、稲作とともに牛が伝わり闘牛も日本に伝わったものであろうと考えられる。

現代において闘牛の行われている地域が壱岐、沖ノ島、宇和島、徳之島、沖縄と、大陸、中国、朝鮮からの通路になっていた地域である事もその証拠である。

日本の闘牛の文献は、承久3年、12世紀頃、隠岐・中之島で後鳥羽上皇が闘牛を好んで見たという文献があります。

二十村郷の地域は、この闘牛の習俗を千年以上にもわたり、守り伝えてきたものであります。

二十村郷の地域には、動物を可愛がり、動物と親しむ習俗が育まれてきたものと思われる

それは、二十村郷の地域は冬場は4m、5mも積雪ある豪雪地であり、気温も零下10度、20度となる寒冷地である。

そのため牛は主人の家の中で飼われ、主人と共に生活する家族同様であった。

現在の闘牛場は3か所であるが、闘牛場跡が数か所あり、江戸時代には、二十村郷の地域の各村々に闘牛場があったと思われる。

江戸時代の闘牛を伝える文献に、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」がある。

南総里見八犬伝の出版された1820年頃には二十村郷の地域には500頭の牛がいて、3日間にわたり、闘牛が行われていたと、当時の隆盛を伝えている。

闘牛は、田植えの後、お盆、稲刈りの後の農閑期に行われた。

闘牛は、しこ名を、主人の屋号で呼び、家を代表して闘った。

闘牛の前日ともなれば、主人は牛に美味しいご馳走を食べさせ、びんずけ油で毛並みまで整えた。

家に横綱牛が出たともなれば、家の誇りであり、主人の名誉となった。

主人も牛を可愛がり、牛も主人のために、一生懸命に闘う、そういう主人と牛との心の交流の文化であった。

そこには、使役動物と人間といった関係を離れ動物と人間とが心を合わせる文化が長年にわたって築かれていった。

牛と人は闘牛を離れて日常生活においても一体であり、心を合わせて農耕に、荷役運搬の作業をする同じ仲間であったと思われる。

仏教文化の影響の強い江戸時代なので詳しくは伝えられていないが、また牛は食材でもあり、牛を食べていたと考えられる。

牛の食文化のある二十村郷の地域から、明治以降、東京においても食肉事業者として、人材を多く出しています。

そのように牛は食材であり、使役動物であり、労働の仲間であり、家族同様であり、村という共同体の一員であるといった、牛と人間とは多面的な豊かな関係を築いている。

そういうことは、現代にない関係であるが、牛を生きものとして人間の用途にかかわらず尊重する社会と考える。

牛を牛そのものとして可愛がる、という先人の知恵であると思います。