革命左派からの要請を受けて、植垣は行方の案内で革命左派の丹沢ベースを訪れ、爆弾作りを行った。このときのエピソードは、植垣と永田の手記を読み比べるとおもしろい。
■1971年10月6日 植垣が革命左派で爆弾作り
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
金子さんは、私が爆弾を作っている間中、いろいろ手伝ってくれた。そうした中で瀬木氏の投げやりな態度が目に付いた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
小屋に戻ると、みなが集まってなにやらさかんに話し合っていた。聞いていると、小嶋さんが中心になって相手を批判したり自己批判したりしているようだった。他愛のないことをさも大変そうに自己批判しているのには笑ってしまった。しかし、なごやかなもので、指導者もいないのに、そのようなことをやっているのには感心した。
そのあと、小屋に入ってきた永田さんが、私に、「私たちは山岳根拠地主義ではない」といって話しかけてきた。永田さんは、私が問題にしたことに答えていたが、最高指導者の永田さんが、私のような一兵士に親しく話しかけ、私の批判に答えてくれたことに感激してしまった。
というのは、赤軍派では、最高指導者が下部のものに親しく話しかけてくるようなことはほとんどなかったし、まして疑問に答えてくれるようなことは考えられなかったからである。「そんなこともわからんのか」といわれて軽蔑されるのがおちだったのである。
坂口氏がみなと一緒に食事を作っていたが、これも赤軍派ではありえなかったので、私の目を引いた。だから私は、永田さんの答えに納得しなかったが、満足した。
こうしたことから、私は革命左派に、赤軍派の官僚的な軍隊的作風とは違った暖かい家族的雰囲気を感じ、両派の作風の違いにとまどったが、消耗していた私にとっては、革命左派の家族的雰囲気はここちのよいものだった。しかし、その反面、軍隊的作風がないこと、きびしい規律がないことことに幼稚さ、頼りなさを感じた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
■1971年10月7日 たまらず痴漢行為
行方氏は、永田さんに、自分の恋人のことで、熱心に話していたが、行方氏にとって、永田さんは、よき相談相手のようだった。行方氏は7日の朝、「一週間くらいいたいなあ」と名残惜しそうに帰っていった。私は爆弾作りが完了してないので、その夜も泊まることにした。
ところがすみっこに他の人が寝てしまったうえ、私の左隣に金子さんが、右隣に永田さんが寝た。私は大変なことになったと思い、気になって寝られず、つい、2人に手を出してしまった。すると翌8日、みなの態度が急に冷ややかになり、夜には小屋の隅に追いやられるようにして寝た。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
金子さんはそれを聞くとお腹を押さえて大笑いするので、私も笑ってしまった。それで、「今度からは男の人の間に寝かせるようにしよう」と話し合った。
この日の夜、寝るときに私たちは各自の寝る場所を指定しあった。そのため、植垣氏の寝る場所がなくなってしまったのか、植垣氏は、「僕はどこに寝ればいいんですか」といったので少し気の毒になった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
しかし、そうはいっても、私には、この爆弾作りは、ちょっとした息抜きになった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
痴漢行為は笑い話で終わっている。これは植垣の人徳といえるだろう。しかし永田は、植垣を責める気はなかったものの、赤軍派との交渉ではちゃっかり痴漢問題を利用している。
■「植垣さんの痴漢行為を自己批判してほしい」
10月中旬、坂東が1人で丹沢ベースにやってきて、銃の要請を行ったとき、永田は痴漢問題をとりあげて、要請を拒否し、坂東を門前払いした。(坂東の「永田洋子さんへの手紙」では「8月上旬」となっているが、坂東の記憶違いと思われる)
それで私は、「ベースに来た時、植垣さんは私と金子さんに痴漢行為を行った。革命左派ではこういうことも自己批判で組織的に解決してきたが、赤軍派ではこういう問題の解決が非合法活動上必要なことを理解していないんじゃないの。ともかく、そういうこともあったので、これだけでも要請に応えるわけにはいかない」といった。
(中略・坂東が「植垣がそんなことするはずがない」と弁護)
私は最後に、「銃の要請には基本的に応えることはできない。それよりも私たちは、米子で銃を奪われたことの総括を聞かせてほしいし、植垣さんの痴漢行為を自己批判してほしい」といった。
これで話は終わった。坂東氏は早々に帰っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)