1970年5月10日 重信房子逮捕(赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1970年5月10日 赤軍派・女闘士を逮捕(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-05-10 女闘士・重信房子逮捕.


 重信逮捕といえば2000年11月の大阪府高槻市での逮捕を思い浮かべるが、この記事は明治大学時代(24歳)のこと。遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)とホステスのアルバイトをやっていた頃と思われる。

よど号ハイジャック事件以来、赤軍派に対する捜査はいっそう厳しくなり、残った幹部が次々と逮捕された。そんな状況の中、まだ無名だった重信房子が逮捕された。この時代の重信については「婦人公論」に連載された「時代を創る女たち」(島崎今日子)に詳しい。


 女性活動家には男と同等に闘おうとジグザグデモの前に立つタイプと、「私は女よ、女でなにが悪い」と開き直るタイプがいた。重信は後者で「女を武器化している」とと批判されても「ブントのため」と平気だった。

 昔の週刊誌には、重信のオルグ率は98%とある。優しく笑いながら「ねえ、一緒にデモ行かない?世界が変わるわよ」。重信の「微笑外交」、またの名は「ポン引きオルグ」で思想研はみるみる膨れ上がった。そこには遠山のほかによど号ハイジャックの田中義三がいた。

 重信が目に見えて変わったのは赤軍派に入ってからだと、明大の仲間たちは異口同音に口にする。教師になるつもりだったが、高原(遠山美枝子の夫)にさそわれるまま赤軍派に加わった重信は、激しい内ゲバ・リンチの真っ最中に居合わせ、人生を変えた。「ルビコン川を渡った日です。党派の理論を知らないまま当事者になり、やるしかないとアクセルを踏みました」。

 赤軍派は男社会で、軍隊化はジェンダーの差異を明確にする。そんなとき田中美津がウーマン・リブのアジビラ「便所からの開放」を一晩で書き上げる。それに新左翼の女たちも激しく共振したが、しかし重信は「男を糾弾するより、主体的に世界を変えることに熱中していた」。

 すでに多くの逮捕者を出し、主たるメンバーは指名手配されていた。重信は神出鬼没で、運動資金を稼ぐために獄中手記を書き、テレビに出演した。彼女派赤軍は時代に公安条例違反等で3度逮捕されている。

(「婦人公論」2007年12月7日号「時代を創る女たち・重信房子 この空を飛べたら(2)」より抜粋)



 文中の「思想研」とは赤軍派の合法組織。獄中手記とは「週刊現代」1970年7月16日号「赤軍派"女隊長"初々の獄中記」のこと。サブタイトルが「日航機乗っ取り謀議の容疑で逮捕された明大生・重信房子の愛と闘争」となっている。


 赤軍派は、よど号ハイジャックで幹部が北朝鮮へ流出し、国内でも幹部逮捕が相次いだため闘争は完全に行き詰っていた。革命をあきらめるメンバーも多い中、重信は国外に活路を見出そうとしていた。そして彼女がテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の奥平剛士と出会うのは、この年の秋のことである。