1972年2月21日 人質ろう城3日目 ヘリや警官に発砲 (あさま山荘事件) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■人質ろう城3日目 ヘリや警官に発砲(読売)


連合赤軍事件スクラップブック-1972ー02-21 読売 朝刊01

連合赤軍の一味は、篭城2日目の20日も泰子さんの肉親や関係者の説得に応じようとせず、ベランダに畳を並べてバリケードを築き、警官隊に発砲を繰り返すなど凶悪な抵抗を繰り返したが、夜になってからは、またもや沈黙戦術をとり、人質の安否がきづかわれながら、3日目を迎えた。


「あさま山荘1972(下)」(坂口)よるとこの日、次のような会話がかわされた。

坂口「牟田さんを闘争の取引にするのは無理かもしれんな。闘争はあきらめて徹底抗戦をやろうや」

吉野「徹底抗戦をするんだったら牟田さんを人質にとっておく必要はないのではないか。開放すべきではないか」

坂口「いや、それはできない。彼女を解放したら、われわれのことが全部ばれてしまう」


坂東も吉野も逃亡派で納得していたわけではないが、最終的には受け入れた。坂口は加藤兄弟にも方針を説明するが、理解したのかしないのかハッキリしないので閉口する。このような相談をしているとき、牟田さんが察して恐怖に震えだし、しきりに開放を訴えたため、坂口は独断で縄を解いて、コタツに入らせ、テレビをみせた。これで泰子さんはだいぶ落ち着きを取り戻した。


夕食はご飯と虹鱒のから揚げ。ところが加藤弟が見張りから戻ってきたときにはご飯がなくなってしまっていた。坂口が電気釜でもう一度炊いた。電気が切れると加藤弟はすぐに食べようとしたが、泰子さんが「少しそのままにしておいたほうがおいしいよ」といってたしなめた。「もういいでしょう」と泰子さんがいうと、待ってましたとばかりに蓋をとってご飯を椀に盛り、勢いよく掻きこんだ。坂口は2人のやり取りが母子のように思え、ほほえましく思ったという。


■すぐにも現場へ(毎日)
寺岡恒一の父(60)「もし息子が山荘に閉じこもっていることがはっきりしたら、私も出かけて"潔く出てこい"と呼びかける。こんなことになるっまでに息子と話し合いたかった。あんなやさしい子がどうして・・・。山荘にいるとすれば、中にいる人に危害を加えることのないように、それだけは、ないようにしてほしい」

坂口弘の母(57)「私もすぐ行きたい。いてもたってもいられない。でも、本人の気持ちが高ぶっているときに私が行ってもいいものかどうか・・・」

梅内恒夫の父は1ヶ月ほど前、自宅を水産会社に貸して、どこかへ引越して行った。転居の前、父親は「息子が過激な運動をして・・・」と悩んでいたという。

芳川幸平(24)の両親「うちの子はどこにいるのか、見当もつきません。息子のことについて何も話したくありません」

坂東国男の母(50)「息子が山荘に立てこもっているとは、信じられない。だから人質になった人についても、何も言うことはない。お話は弁護士を通じていたします」


■連合赤軍 孤立から壊滅へ(朝日)

京浜安保共闘は「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想」を理論的な基礎にしている。一方赤軍派の母体共産主義者同盟。理論的には、京浜安保共闘の「一国革命論」に対し、赤軍派は「世界同時革命」と、まったく体質を異にしている。しかし、過激な闘争を繰り返し、警察当局に追い詰められていくうちに、規制の新左翼勢力から孤立していき、それが理論上の違いを乗り越えて「連合」に踏み切らせ、より過激な闘争で、追い詰められていた局面を打開しようとしたのではないか、とみている。


こうして昨年7月15日、京浜安保共闘の「人民革命軍」と、赤軍派の「中央軍」が連合し、全人民のほう起をめざす」という方針が打ち出された。また、赤軍派はP作戦(要人誘拐作戦)を実行しようとしたが、有力な武器がなかった。しかし、M作戦で強奪した資金は十分持っていた。一方、京浜安保共闘は「真岡事件」で奪取した猟銃を持っていたが、資金が不足していた。こうした同派の事情も連合する1つの強い動機になっていたようだ。


■くさみもとれる(毎日)
 群馬県警に留置されている森恒夫、永田洋子ら4人は、取調べの核心に入ると貝のように口をつぐんだまま黙秘。しかし、食事には飛びつくようにパクつく。森以外の3人は入浴して一味特有の"体のくさみ"もとれ、逃亡生活の疲れは日一日と抜けてきているようだ。

 永田は入浴する際、活動家の救援グループと証する学生の差し入れた石けんとタオルを渡されると「どこのヤツかわかならないものがらの差し入れは使えない。警察のタオルと石けんを貸して欲しい」といった。また初めは終身時間の午後八時になっても興奮気味で、毛布の中でしばらくごそごそ。深夜、看守が声をかけるとガバッと飛び起き、昼間の調べに対する男顔負けの態度もどこへやら「すみませんでした」と、あやまったという。しかし、バセドー氏病なので、医師に見せようとすると「医師はいやだ。私のからだは私が一番よく知っている」と拒んだ。また手配写真を見せられると「こんちくしょう、バカやろう」とワッと泣伏した。

 森は、いつもぐっすり眠り、食事も全部平らげるほどの落ち着きよう。取調べのとき、たばこを出すと「あんたたちのたばこはすえない」とうそぶく。その他の2人も取調官の追及には口を割らず「大久保清以上だ」と調べ官もネを上げている。


■編集手帳(読売)

連合赤軍の連中にいわせるなら、山に立てこもったのは追い詰められたからではなく、来るべき血気に備えたに過ぎないのかもしれない。たしかにそう思われるフシもないではないが、それでも彼らの一挙一動に<敗残>の色が漂っていることは否定できない。◆南軽井沢の山荘でむなしい篭城をつづけ、猟銃とを発射する彼らを見ていると、まっさきに思うのは青春の浪費ということである。◆思いつめるとたいがいのことはやりかねないものだが、それにしてもせっかくの頭脳と青春を、こんなおよそくだらないことにかけるのはもったいない。なにやら理屈らしいものをこねまわしながら、つまるところは、金嬉老なみになっているのだから情けない。◆いや、かれらは大の男が寄ってたかってたった一人の人質しかも女性をタテにしたのだから、たった一人で、とにもかくにの13人の人質をおさえた金嬉老よりもはるかに卑劣であるといわなければならない。この1つをみるだけでも、かれらに革命を口にする資格などないことがよくわかる。◆なにかやけくそとも取れるかれらの行動が、あるいは散り散りになったほかの同志の逃走を容易にし、捨て鉢の一人一殺?を助けるための陽動作戦ではないかとさえ思った。だが、陽動とはいえその抵抗はあまりにも弱くそしてはかない。つまり警察隊のいうムダな抵抗◆民衆とは無縁、民衆に見放されてあわれな末路をたどる<革命>といわれるゆえんである。


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