毎朝美味なお食事を、毎夕、生魂を差し上げなさい。
 

 美味なお食事とは、惜しみない食事ということで、ささげる心持が清らかでなければなりません。
 

 土器一枚。中に米三粒。
 鱏(ごまめ)二匹。
 勝栗三つ。
 

 これを毎朝差し上げます。
 これくらいなら、それほどの出費となりませんから、どんなけちな人であっても惜しいとは思いますまい。ですから、これらを差し上げましょう。
 

 次に、生魂です。

 これは人の生胆のこと。ですからその生魂を、毎夕差し上げるというと、不審に思われるでしょう。
 
 三千世界のうち、人の胆以上の珍味はないと神が思われるほどのものなのです。こんな尊いものを、めいめいが持っていながら、これを差し上げないでおいては、いかにも不甲斐なく、人と生れたのも無意味になってしまいます。


 身分の上下、愚かな者も賢い者も、それぞれ相応の願望はあるものです。そのうち一つか二つ、ぜひとも成就しなければならぬ願望があっても、みなかなわずに死んでしまうのは、百人が百人、恨みを黄泉国に残す結果になるのはまちがいないところ、涙の海に沈むのは目に見えています。


 これは、今までに述べた信心の取り違えからこうなってしまいますので、よくよく思い知り、早く空っぽの信心を打ち捨てて、本当の道に戻って、生魂の修行をすべきこと、急務で重要なことと思われます。


 ですが、本当の道の生魂の修行とて、別に難しいものではありません。
 アマテラス大御神を尊敬し崇め申し、
 天皇を日嗣の神と仰ぎ申します。
 御代御代住みやすい世をお作りくださって、そのお蔭で自分も今日の住みやすい世に、何不自由なく暮らすことができるのは、全くご恩にしてお慈悲、お助けにあずかっているからであります。

 世の人には、日蓮、親鸞の徒に助けられたという者もおりますが、そんなことはかつてないことなのです。それらの徒に助けられたといって、天皇の恩を踏みつけにする者どもが、どうやって念仏や題目を口先で唱えようが、どれほどのご利益をうけるというのでしょう。


 よその人ならばともかく、私の門下で本当の道にて修行に励む者は深くこの仕組を知るべきです。

 祖先の教えは違っていたはずなのに、今となって杜撰な僧侶の悪いすすめによって、惜しくも宝物とすべきものをまちがえてしまうとは。さてさて苦々しいことです。 


 次に主君や夫を
 タカミムスビノ神とし、
 両親を
 イザナギ・イザナミノ尊と心得なさい。


 私が詠んだ歌に、下手ではありますがこんなものがあります。


父母(ちちはは)の世(よ)にます限(かぎ)り。子(こ)に子(こ)たる。道(みち)尽(つく)さぬぞ。残(のこり)多(おほ)かる。


【父母がこの世にいらっしゃる限り、子は子としての道を尽さないなら、いっそう名残が惜しくなるはずですよ】


朝(あさ)な夕(ゆふ)な。思(おも)ひ出(いだ)して。悲(かなし)きは。無(な)き父母(ちちはは)の恵(めぐ)みなりけり。


【朝な夕なに思い出して悲しく思うのは、今はなき父母の恵みなのです】


 すべて、人々を八百万の神と思い、敬う心が、兎の毛で突くほどにも私心というものがなければ、すぐさま生魂となります。


 この生魂には姿に違いがあります。しかし、身分の上下に差別はあっても、心にはちっとも違いがありません。神々の住まう高天原もそんな場所なのですから、それと全く近いところを心の住まいとすべきです。 
 かりに高天原と掛け離れてしまうよう心が動くときには、自分の心に生じたわがままだと思い定めて、そのわがままを消すより他に、人の道はありません。そのわがまま、また慢心を消してしまえば、本当の仁義礼智信が出現します。


 今の世にいう仁義礼智信は、みな口先ばかりの働き、わがままの召し使う小物に過ぎませんので、重要な役には立ちません。何分にも真心の本来ある自分に立ち戻るべく、胸の中の妄念を消しなさい。

 このようなことに合点の行く人は、たちまち悪事災難の汚れた場所を離れ、すぐさま開運の門に入り、立身出世の高い塔に昇る境涯に進みますし、そのときには願うところが、必ずいつも側にあることでしょう。



●原文
 明治十六年刊、内藤存守校書のものを使用。
 漢字片仮名混り文ですが、すべて片仮名を平仮名に改めました。( )内はルビを示します。二、三左に訓をふっているものがありましたが、同様にルビとして処理しています。


毎朝珍(うま)し御食(みけ)を献じ。毎夕には生魂(いきみたま)の御料を献ずべし。さて珍(うま)し御食(みけ)とは。惜(をし)まざる御食(みけ)と云ふ事にて。捧(ささぐ)る心(こころ)清浄(しやうじやう)なるを云(い)ふ。土器(かはらけ)一枚。中(なか)に米(こめ)三粒(みつぶ)。鱏(ごまめ)二匹(にひき)。勝栗(かちぐり)三(み)つ。是(これ)を毎朝献ずる儀なり。但(ただ)し是(これ)しきの事(こと)は。さのみ身の上(うへ)の痛(いたみ)とも成(な)るべからざれば。如何(いか)なる吝嗇の人と雖(いへど)もをしとは思(おも)ふまじ。就(つき)ては是を献ずべし。次(つぎ)に生魂(いきみたま)の御料(ごりやう)とは人(ひと)の生胆(いきぎも)の事なり。されば其(その)生魂を毎夕毎夕捧(ささげ)奉(まつ)ると云(い)ふは甚(はなはだ)不審(ふしん)なるべし。三千世界を尋(たづね)ても。神は人胆(ひとのきも)に勝(まさ)る珍味はあらじとおぼす程の大切の品(しな)なり。貴(たふと)き品(しな)を銘々所持いたしながら。是(これ)を奉(たてまつ)らぬと云ふは。いかにも不甲斐(ふがひ)なき儀にして。人と生(うま)れし其(その)詮(せん)なし。貴賤賢愚を云はず銘々相応の願望は有るものなり。其(その)中(なか)是非一(いと)つか二(ふた)つか成就せざれば叶(かな)はぬ諸願有れども。皆(みな)叶(かな)はずして死(しぬ)るは。百人が百人ながらにして。恨(うらみ)を黄泉に残(のこ)すべきは。差当(さしあた)りて間違(まちがひ)なき所(ところ)なり。誠(まこと)かなしき至(いた)りにて。後悔するも其(その)甲斐(かひ)あらず。涙(なみだ)の海(うみ)に沈(しづ)むは眼前の義と云ふべし。此(これ)は上(かみ)に云(い)ふ。信心(しんじん)の取違(とりちがへ)より斯(かく)の如(ごと)く成り果(はつ)る類(たぐひ)。能々(よくよく)思(おも)ひ知(し)らば。早(はや)く其(その)空気(うつけ)の信心を打捨(うちすて)。実道(まことのみち)に立帰(たちかへ)りて。生魂(いきみたま)の修行有度事(ありたきこと)。急務肝要の義と思(おもは)る。されば実道生魂の修行迚(とて)。別に六(むつ)か敷(しき)次第にあらず。天照大御神(あまてらすおほみかみ)を尊崇し奉(たてまつ)り。天子を日嗣(ひつぎ)の神(かみ)と仰(あふ)ぎ奉(まつ)りて。御代(みよ)の極楽を御作(おんつく)り下(くだ)され。其(その)御蔭(みかげ)にて。我人(われひと)今日極楽の境界に。何(なに)不足(ふそく)なく暮(く)らさるるは。全(まつた)く国恩の御慈悲(おじひ)。御助(おたすけ)に預(あづか)る義にてこそあれ。俗人の分は。日蓮。親鸞の徒に助(たすけ)られたる義は曽(かつ)て無(な)きなり。彼(か)の徒に助(たす)けられたりと云て。国恩を踏付(ふみつけ)にする者(もの)等(ども)。いかで念仏題目を口先(くちさき)にて唱(とな)へたりとも。幾許(いかばかり)の利益を稟(うけ)んや。他人は及(およ)ばず。我門(わがもん)に入(いり)て。実道修行の族(やから)は深(ふか)く此(この)理(ことはり)を知(し)るべし。其(その)祖等(おやたち)の教(をしへ)は斯(かく)も有(あ)るべからざりけんを。今(いま)杜撰(づさん)の僧徒の悪(あし)き勧(すす)めによりて、あたら御宝(おほんたから)を狂惑さるるは。扨々にがにがし。
次(つぎ)に主人(しゆじん)夫(をつと)を高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とし。両親(ふたおや)を諾冉(いざなぎいざなみ)の二尊と心得(こころう)べし。則ち愚詠に
 父母(ちちはは)の世(よ)にます限(かぎ)り。子(こ)に子(こ)たる。道(みち)尽(つく)さぬぞ。残(のこり)多(おほ)かる。
 朝(あさ)な夕(ゆふ)な。思(おも)ひ出(いだ)して。悲(かなし)きは。無(な)き父母(ちちはは)の恵(めぐ)みなりけり。
凡(すべ)て人々を八百万神(やほよろづのかみ)と思ひ敬(うやま)ふ心。兎(う)の毛(け)を以(もち)て突(つき)たる程も私(わたくし)なければ。直(すぐ)に生魂(いきみたま)となる。此(この)生魂に於(おけ)る。姿(すがた)に隔(へだ)て有(あ)り。又(また)尊卑の差別(けぢめ)はあれども。心には少(すこ)しも隔(へだ)て無(な)きを高天原(たかまのはら)と云(い)ふされば。幾重(いくへ)にも隔(へだて)なき所(ところ)を心(こころ)の住居(すまひ)とすべし。若(もし)隔(へだて)の心(こころ)出(いで)たらむ時(とき)は。私(わたくし)と云(い)ふ心(こころ)の我儘(わがまま)と思(おも)ひ定(さだ)めて。其(その)我儘を討殺(うちころ)すより外(ほか)に人道(ひとのみち)はあることなし。其(その)我儘(わがまま)我慢(がまん)さへ打殺(うちころ)せば。真(まこと)の仁義礼智信ぞ出現すべき。今世(いまのよ)に云(いふ)。仁義礼智信は。皆(みな)口先(くちさき)の活用(はたらき)我儘の召遣(めしつか)ふ小者(こもの)なれば。要用には立(たつ)べからず。何分(なにぶん)も真心(まごころ)の我身(わがみ)に立帰(たちかへ)りて。胸中の妄念を攻討(せめうつ)べし。斯(か)く云ふ処(ところ)。実(まこと)に合点せし人は。忽(たちま)ち悪事災難の汚穢の地を離(はな)れ。直(ただち)に開運の門に入(い)り。立身の高楼に昇(のぼ)る階級に進(すす)み。宿願成就必(かならず)近(ちか)きに在(あ)るべし。