タイトルで「おまえは狂四郎か!」と叫んだあなた! 時代劇ファンですね!
それはともかく。
さる18日18時30分より、当社社務所にて、札幌周辺の神職の方々と祝詞の勉強会を行いました。私を除くと四名、出席者は少なかったのですが、だからこそ和気藹々と、中身の濃い話ができたと思います。
それで私、身の程もわきまえず講師を引き受けてしまいまして、もちろん引き受けたからには、立場上どうのこうのと遠慮してはかえって失礼ですので、ずいぶんズケズケとものを申しました。
ここに謹んでお詫びいたします。
出席者の一人、西野神社のT権禰宜が、すでに当日の模様を詳しく書いてくださっています。
西野神社社務日誌
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20110218
私もバッチリ写真に写っていてハズカシイのですが、万一私の姿をご覧になりたいという奇特な方がいるんでしたら、妖怪っぽいのをお探し下さい。もしかしたら妖怪そのものを探した方が早いかもしれません。
冗談はさておき。
T権禰宜には今回の勉強会開催にあたり、万事そつなく、さまざま調整してくださり、お土産までいただいてしまいまして、さらにはブログにて過分なお褒めをいただきまして恐縮でございます。
ありがとうございます。
大変、お疲れ様でした。
研修や各種の行事など、公的な神職の集まりはたくさんあるのですが、こうした私的で自然発生的な集まりの中で勉強するのもまた乙なものでございます。特に今回は、同職の方の祝詞を拝見することで、「こういう言い方もあるのか」「こういう発想おもしろいな」と、講師をつとめる私自身も大変勉強になりました。
出席者の皆様、ありがとうございました。
次回は、本日出席していただいた方から、古事記についてお話をうかがう予定になっています。
学生のときは、もちろん古事記は神道古典の王様ですからずいぶん読んだのですが、最近はパラパラとそのときに必要なところだけ拾い読み。
少しずつでも今から通読したいと考えています。
以下、現在祝詞作文についてちょっと思うところを。
お坊さんはお経を作りませんけれど、神主は祝詞を作ります。
もちろん、間違いがないように作りますし、作文自体は技術の問題です。
語彙が豊富で、美しいことばで飾り、巧みな構成で……と、技術が向上すれば、それなりのものは作れます。
私などより、もっと巧みな方はザラにいらっしゃいますし、古文が書ければいいわけですから、祝詞を作ることについては、別に神主である必要さえありません。
ただ、うまく作ったからって、どうだっていうのよ! と思います。
四苦八苦しながら、自分の持っている限りのことばで何とか紡いだ祝詞の方が、単に巧みなだけの祝詞よりも、神様に届くのではないでしょうか。がんばって作った祝詞には、その人の生き方が現れると考えるからです。ことばとして、そうしたことが書かれていなかったにしても。
また、國學院大學の安蘇谷先生によれば、「神道神学とは自己の神道信仰の言語化」とのこと。
それなら、祝詞を作文することは十分、神道神学になり得るはずです。
神職としてどう生きているのか、そして自分の信仰を祝詞の中で表白することが神道神学につながる。
また、そうして神道神学としても考えることを通じて、生き方を反省し、また信仰を深めるようつとめる。
何だか、祝詞作文の虜のようになっていますね。