きのうのつづき、学階のうち司業の試験問題です。

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道義科


(1)「皇祖皇宗の国を肇め給ひしこと宏遠なり」という。その事実を列記せよ。
 
 タカミムスヒノ神とカミムスヒノ神は物を生成され、アマテラス大神は国中を照らして臨まれ、ニニギノ命は高天原の神聖な庭の稲穂を賜り、それで五穀を植えて増やし、人間が生きて行けるようにされた。神武天皇はご先祖の天の神様を祭って、大いに孝をお示しになられた。そこで、世間の大事なことはみな皇祖皇宗がくださったのだと言える。


(2)現代の神職はどのように知識を得、徳を養えばよいか述べなさい。
 
 普段何事もなく生活して行けるのは、天皇様の御恩による。だから天皇様のためには身命を惜しむべきではない。必ず御恩返しをしなければならないと、常に心がけるのは、もちろんのことである。しかし、悪い神のしわざだろうか、報国の念が薄く、自分は卑しい生れだと思い、また口にし、父母を大事にせず、まるで他人のように扱う者がいる、このような人間として当然ふみ行うべき道に外れた者は、技芸に上達していて学問をおさめたと言っても、人と見ることはできない。人は人たる道があるからこそ、人なのである。人の心がなければロボットと変わりないではないか。 


(3)「目に見えぬ神の心のかみごとはかしこきものぞおほにな思ひそ」この歌を詳しく説明しなさい。


 神は目に見ることはできないが、神の方では我々をはっきり見ておられる。神に関ることは人智の及ばぬ霊妙なものである。目に見えないからといって邪悪なことを思い、してはいけない。人間は知らなくても、神ははっきりとご覧になっているのだから。神のみ心に添うよう善根を積み、例え目に見えなくても悪業をなしてはいけない。このことを曖昧にするな。はっきりと心に留めなさい。普通の考えをしていてはいけない。


(4)「さかくじも神しあればその道も広けき神の道」この歌を詳しく説明しなさい。


 釈迦も孔子も神であるので、その言行は広いもので容易に全てを学び取ることはできない。そうであっても、我が皇国の神道に比べるとまだその広さを
競うべきではない。というのも、釈迦や孔子が説いたことは、すでに我が神道に備わっているものだし、しかも我が国には宏遠で深厚な惟神の大道があるからである。だからこの釈迦や孔子の教えも、神道の分れ道である。



●原文
 『学階試験問題参考』(吉岡桜節 会通社 明治44)より。
 旧漢字は新漢字に改めました。


道義科

(1)皇祖皇宗の国を肇め給ひしことの宏遠なる事実を列記せよ
 解 既に解けり


 ※六十頁にはこうある。「高産霊神神産霊神は物を成生し給ひ天照大神は六合に照臨し皇孫天降の時に方りては斎庭の穂を賜ひ五穀を蕃殖せしめ生命に資し給ひぬ神武天皇は皇祖天神を祭り以て大孝を申へ給ふ世の事々皇宗皇祖の賜ならぬはなし」


(2)方今の神職たるもの如何にして智能を啓発し徳器を成就すべきかを記述せよ
 解 既に解けり


 ※該当する解はないが、似たものとして六十一頁にこうある。「今日無事生活し得る所以のものは皇恩に頼る故に君の為には身命を吝むべきにあらず必ずや報本反始の実を挙げんと常に懸くる勿論の事なりとす然るに禍神の所業にか報国の心に薄く己濁り生れし如く思ひなし言ひなし父母を斎かず他人の如き者あり斯る人倫の道に外れ居る者如何に技芸に達し学問ありと雖ども人と見ること能はず人は人たるの道あればこそ人なれ人の人たる心なくんば偶人と撰ぶ処なきなり」 


(3)目に見えぬ神の心のかみごとはかしこきものぞおほにな思ひそ
 この歌を詳解せよ

 解 神は見えねど見明らめ給ふ神事は人の計り知るべからざる霊妙のものなり目に見ぬとて邪悪を思ひ或は為すべからず人は知らずとも神は明に照覧し給ふ故に神の随に善根を積み苟且にも目に見えぬとて悪業を為すべからず朧けに思ふな明に思へ普通の考に任すべからず


(4)さかくじも神しあればその道も広けき神の道
 右同上(この歌を詳解せよ)

 解 釈迦も孔子も神なれば其言行は広くして容易に学ぶべからず然れども皇国の神道に較へば未だ其広きを競ふべからず何んとなれば釈迦孔子の説けるもの自ら我に備はり而も我には宏遠深厚なる惟神の大道の存せるありさればこの釈迦孔子の道も我神道の岐道にぞある