祝詞の中での敬語というと、皆さんはどういう印象を持たれるでしょうか。
たいていは神様に対してのことばが祝詞ですから、すごく複雑なものかと思いきや、けっこう単純なんです。
特に現代の祝詞(霊祭の祭詞も含む)に限れば理由も単純で、誰の誰に対する敬意かが、はっきりしているからです。奏上する人の神様に対する敬意を敬語で表現する。それから、お祭りと言って皆さんがイメージされる、みこしが練り歩いたり、露店が境内などに並んだりするときには、その神社にとってももちろん大きなお祭りです。その祝詞では、天皇への敬意を表現することがあります。
おおまかに奈良時代あたりの敬語では、丁寧語が未発達でしたから、現代の祝詞でも丁寧語は余り使用されていません。
ですから、神様、天皇に関することは尊敬語、奏上する人・参列者などに関することは謙譲語で表現します。
これだけです。実に簡単。
王朝文学最盛期には、これが複雑になっていきます。センター試験に出題されていた『源氏物語』より。
(帝は)故宮(母藤壺)の御ことを干る世なく(涙の乾くひまもなく)思しめしたるころなればなめり、と見奉り給ふ。
受験では「思しめす」「奉り」「給ふ」と敬語があります。尊敬語か謙譲語か、誰の誰に対する敬意かを聞くわけですね。帝、藤壺、それに「見奉り給ふ」人(恐らく源氏)と三人いて、さらにこれを書いている作者もいる。実に面倒です。
それに対し、『神社本庁例文集上』の例祭祝詞を引きますと、
天皇の大御代を手長の御代の厳御代と堅磐に常磐に斎ひ奉り幸へ奉り給ひ
これでも複雑な方です。
「奉り」は謙譲語、奏上者から天皇への敬意で、「給ひ」は尊敬語、奏上者から神への敬意です。
このように祝詞の敬語は簡単なのですが、間違いも見かけられます。
例えば同書には、「見そなはす」に「坐す」をつけ「見そなはし坐して……」とする例が多数あります(数えたところ23折ありました。同様に神社本庁発行である『続諸祭式要綱』には3例)。
「見そなはす」は「見る」「そなふ」「す」と分解でき、「す」は尊敬の助動詞です。くっついて一語となりました。一方「坐す」は尊敬の(こういう使い方をするなら)補助動詞。
ところが「見そなはす」は最高敬語なので、その上さらに「坐す」をつけるのは、適切な使い方ではありません。
神社本庁発行のものでも、このように間違いがあります。
似た例で「聞しめし給ふ」とする間違いもあります。
「聞しめす」は「聞こす」と「めす」の複合語で、さらに「聞こす」はもともと「聞く」に尊敬の助動詞「す」がくっついたものです。これもすでに最高敬語ですから、さらに「給ふ」をつけるのは適切ではありません。
これは『神社本庁例文集上』にはありませんけれど、『諸祭式要綱』には1例(発柩祭詞)、『続諸祭式要綱』には3例(成人祭、抜穂祭、埋井祭)あります。
どうも同じ人が間違えたような気がしますけれど、ちょっとだけ弁護すると、「見そなはす」「聞しめす」が敬語には思えなかったから、「坐す」「給ふ」を加えてしまったのではないでしょうか。
「見」「聞」だけを見ると、敬意を省いた形と全く変わりませんし。
でも、逆に言うと、こうした「一見敬語ではないように見えるけれども、敬意を持つ語」をしっかり把握することで、こうした間違いを防ぐことができると考えます。