予告通り、きのうのつづきを。


  (4)六国史の「広前」と「大前」 


 次に、六国史を見てみます。
 『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』には「広前」の用例がありませんが、『続日本後紀』以降は計三六例あります。
 一方「大前」は『続日本紀』において、このような対象に向けて用いられています。


  皇太上天皇
  皇天皇
  天皇らが命・盧舍那佛像
  三宝

 

 つづく『日本後紀』では以下の三例。


  大神(伊勢の神宮) 
  五十鈴の川上に坐す皇大神
  五十鈴の河上に称辞(たたへごと)定め奉る大神


 『続日本後紀』『文徳実録』には用例がなく、『三代実録』には次の一例があります。


  八幡大菩薩


 次に、『続日本後紀』以降、どんな祭神に「広前」が使われているか見てみます。


 『続日本後紀』には、次の一例しかありません。


  (1)伊勢度会の五十鈴の川上に坐す大神
   (および賀茂御祖社)


 『文徳実録』には、以下の六例。


  (2)天御柱・国御柱神
  (3)賀茂大神社
  (4)春日大神社
  (5)大神(紀伊国日前国懸大神社)
  (6)大神(伊勢、賀茂、松尾、乙訓等神社)
  (7)八幡大菩薩


 『三代実録』には、以下の二十九例あります。


  (8)諸大神(内外諸名神社)
  (9)八幡大菩薩(および近京名神六社)
  (10)石清水に坐す八幡大菩薩(および平野社、太政大臣東京第社)
  (11)天照坐太神
  (12)南海道諸名神
  (13)松尾大神(および賀茂御祖別雷、松尾、丹生川上、稲荷、水主、貴布祢神)
  (14)稲荷神(および畿内諸神)
  (15)広田大神(および生田大神)
  (16)春日大神
  (17)伊勢度会の五十鈴の河上に坐す皇大神
  (18)天照坐皇大神
  (19)石清水の皇大神
  (20)八幡大菩薩(および香椎、宗像大神、甘南神)
  (21)賀茂大神(および貴布祢神)
  (22)賀茂大神(賀茂御祖、別雷両社)
  (23)天照坐大神
  (24)賀茂大神(および松尾、平野、大原野)
  (25)賀茂大神(賀茂御祖、別雷両社)
  (26)春日大神
  (27)畿内畿外の諸名神
  (28)天照し坐す皇大神
  (29)賀茂大神
  (30)松尾大神(および賀茂御祖・別雷、平野、大原野神社)
  (31)平野大神(および賀茂御祖別雷、松尾、石清水、稲荷、住吉、平野、大原野、梅宮)
  (32)賀茂大神(賀茂御祖別雷。および松尾、平野、大原野、稲荷社)
  (33)同上
  (34)丹生河上に坐す雨師大神
  (35)賀茂大神(賀茂上下。および松尾、稲荷、住吉、石清水、高賀茂、平野、春日、大原野、梅宮)
  (36)松尾大明神(および賀茂上下、稲荷、貴布禰、丹生河上六社)


 延喜式の成立は延長五(九二七)年でこれより時代がくだりますが、祝詞式は先行する弘仁式・貞観式とほぼ同内容だったと言われています。弘仁式は弘仁一一(八二〇)年で貞観式は貞観一三(八七一)年の成立です。
 これを加味しつつ国史における「広前」と「大前」を見ると、「広前」は奈良時代から使われていたと言えるものの特殊な場合に限られていた。しかし『文徳実録』以降、多用されるようになり、『三代実録』では席巻する状況となった、と言うことができます。


  (5)おわりに


 神前を示す言葉として、延喜式では単に「前」とするのが最も多く、アマテラス大神のみ「大前」を、他、わずかに「広前」があることを、用例をあげて、まず説明しました。また、「広前」の「広」は一般に敬語とは見なされませんが、敬意が働いていると見なせるのではないかと指摘しました。

 この「広前」は式祝詞(春日祭)からすると、すでに奈良時代から「広前」が使用されていたことが分ります。そして、 『続日本後紀』の頃にはアマテラス大神に対してさえ用い、しだいに「広前」ばかりが使われるようになっていきました。


 その一方では、式祝詞の「大前」は改変されずに残っていました。ですから六国史の最後でいうと『三代実録』の頃には、昔「大前」としていたものはそのまま使用する、その一方で新作は「広前」とする、という形で併用していたということになります。


 この先、文学作品に見るように敬語がより複雑になっていきます。しかしながら『三代実録』に見るように、どの神であるかに関らず「広前」を使用する発想は、近代以降にすべて「大前」とした感覚に近かったのではないでしょうか。
 また、この「広前」の席巻は、春日社が藤原氏の氏神であることから、藤原氏の勢力伸張にも関りがあると思われます。


   参考文献


 式祝詞の書き下し文は、『祝詞』(青木紀元・おうふう社)を使用しました。いつもお世話になっております。
 『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳天皇実録』『三代実録』からの引用部は、国史大系を参照しました。


 (1)から(36)の出典は、以下のようになります。


(1)巻一、承和八(八四一)年六月辛酉(廿二)
(2)巻二、嘉祥三(八五〇)年七月丙戌(十一)
(3)巻二、嘉祥三(八五〇)年九月戊子(十四)
(4)巻二、嘉祥三(八五〇)年九月己丑(十五)
(5)巻二、嘉祥三(八五〇)年十月甲子(二十)
(6)巻三、仁寿元(八五一)年六月甲辰(三)
(7)巻七、斉衡二(八五五)年九月壬子(六)
(8)巻九、天安元(八五七)年二月乙酉(十七)
(9)巻五、貞観三(八六一)年五月戊子(十五)
(10)巻十、貞観七(八六五)年四月丁卯(十七)
(11)巻十三、貞観八(八六六)年七月戊申(六)
(12)同上
(13)巻十三、貞観八年(八六六)七月丙辰(十四)
(14)巻十四、貞観九年(八六七)五月辛丑(三)
(15)巻十五、貞観十年(八六八)閏十二月己亥(十)
(16)巻十六、貞観十一(八六九)年二月丙申(八)
(17)巻十六、貞観十一(八六九)年六月癸夘(十七)
(18)巻十六、貞観十一(八六九)年十二月丁酉(十四)
(19)巻十六、貞観十一(八六九)年十二月壬子(二十九)
(20)巻十七、貞観十二(八七〇)年二月丁酉(十五)
(21)巻十八、貞観十二(八七〇)年六月辛卯(十)
(22)巻十八、貞観十二(八七〇)年六月癸卯(二十二)
(23)巻二十、貞観十三(八七一)年九月甲申(十一)
(24)巻二四、貞観十五(八七三)年十月丁酉(六)
(25)巻二六、貞観十六(八七四)年八月丙子(二十)
(26)巻二七、貞観十七(八七五)年六月己未(八)
(27)巻二九、貞観十八(八七六)年十月戊申(五)
(28)巻三十、元慶元(八七七)年二月乙丑(二十三)
(29)巻三十、元慶元(八七七)年二月丙寅(二十四)
(30)巻三十二、元慶元(八七七)年七月戊午(十九)
(31)巻三十三、元慶二(八七八)年三月乙巳(九)
(32)巻三十七、元慶四(八八〇)年二月己丑(五)
(33)巻三十七、元慶五(八八一)年十二月乙丑(十一)