吉田兼倶の『中臣祓抄』のうち、きのうご紹介しなかった方を見てみます。


 第七 太諄辞

 天津祝詞乃、太祝詞乃事於、宣礼、如此宣波、

 第七、太諄辞段、太諄辞、神咒也、日神閇居天磐窟之時、天児屋命、則以神祝々之、於是、日神開磐戸、而出焉云々、一書云、使天児屋命、掌其解除之太諄辞、而宣之焉云々、太祝詞者、咒文也、別有口伝、


 「天津祝詞……」は中臣祓本文、「第七」以下が兼倶の注釈です。このあたりは昨日とほぼ同じなので、訓読も訳もしなくてよいでしょう。

 ここで本文を「宣礼」と書いているからには、兼倶は恐らくこれを「ノレ」と読んでいたのでしょう。どうしても「ノタマヘ」と読むことはできないからです。ですから、「ノレ」と読んで「ノタマへ」という意味だと考えていた訳です。


 きのうご紹介した注釈はあっさりしていましたけれど、これは講義ノートの意味合いのものだったらしく、また別にメモのようなものが小さく書き込まれています。
 それも以下にあげてみましょう。
 まず頭注として、以下のような記述があります。


 初、岩戸神態ヨリ起、依之、児屋尊乃神宣、秘奥・極位乃大事在之、従是、神楽義アリ


 初め、天岩戸における神々のわざから起ったことで、これによるとコヤネノ尊の神宣であって、たいへん重大な神秘がここにある。これによって神楽の儀式がある。ここでは、特に真新しいことはありません。


 次、神道四重之秘、四位相承事、相伝・伝授・面授・口決、相承分、影像・正(光カ)気・向上・底下、


 吉田神道の修行カリキュラムについて書かれているようですが、このあたりは、さっぱり分りません。要は「この段階まで進んでいる人にはここまでは教える」と決められていて、そのメモなのかもしれません。(光カ)とあるのは、編者の方が原文を読んでも「正」か「光」か判断できなかったところです。


 次、拍手事、此手拍(児手柏カ)ノ習、忍手・八開手・短手・窪手等、八重アリ、
 次、木綿、斎服、冠・烏懸事、宇多、御烏、立・折等事、
 次、神宮御祭、当流祓用之事、
 次、寿詞、七種祭等事


 ここも詳しいことはよく分りませんが、講義のとき、拍手や装束の説明をするんですね。


 次に、本文「天津祝詞」の横には、このような注があります。


 内侍所御神楽、一条院御宇始之、寛弘度也、宸筆宣命始于此時、勅使行成卿


 (宮中)内侍所の御神楽は一条院の御代、寛弘のことである。 宸筆(天皇がご自身でお書きになった)宣命はこのときに始まる、勅使、行成卿。

 訳してみても、話がよく見えません。とにかく兼倶が、ここでこんな話をした、ということくらいです。


 ここまでは余り「天津祝詞の太祝詞事」には関係ないですが、注釈の最後、「別有口伝」の「別」の横には、このような注があります。


 禰宜・祝事、賀茂長明事、歌事


 神主の役職である「禰宜」や「祝」のこと、賀茂長明のこと、歌のことをここで説明するのでしょう。
 じゃあこれは、口伝と何の関係があるのでしょうか。

 この部分、また別に「賀茂」の右には「鴨」と書かれていて、左には「ヒヒ」と書かれています。


 鴨長明は院政期の人、『方丈記』の作者として著名です。歌人でもありましたから、講義中は次の「歌事」とつなげて話すのかもしれません。
 そして「ヒヒ」、これは秘密だ、ということらしい。
 このことから、この口伝は鴨長明の詠んだ歌に係るものだと推測できます。もちろん、「天津祝詞の太祝詞事」を吉田兼倶がどう考えていたのか、その内容を示すものではないかと思われます。