最近敬語に興味がありまして、色々調べていたところネット上で気になる記事を見つけました。
 畏き辺りに近い家柄に生まれた方で、現在大学教授の方が書いているブログに、その記事がありました。


 一言で要約すると、羽毛田宮内庁長官の敬語の使い方がおかしい!


 ……ということです。


 同氏があげた文例をあげます。


 両陛下も心配しておられると思う。

 できる限りご一家で毎週一回、ご参内になるのを定例になさっておられた。

 どうしたんだろうということでのご心配はなさっておられる。

 努力をしたいということは言っておられました。


 そして、「この『おられる』『おられた』」は謙譲語であって、天皇及び皇族に使うべき言葉ではありません、と仰って、以下根拠を述べています。


 それで、ええーっ、と思ったんですよ。いつ謙譲語になったの? って。先生、たぶん誤解していらっしゃる。「おる」が謙譲語かどうかは専門家の間で争いがある。つまり、どっちか決着がついてないんですね。


 さて、ここで品詞分解しますと、


 おら | れる

 おら | れ | た


 「『おられる』『おられた』は、元は『おる』「。これを受身の形にして丁寧にしたのが『おられる』で、これを過去形にしたのが『おられた』です」と仰っていますが、「受身の形にして丁寧にした」って、皆さん、分りますか? 私もちょっと足りない脳味噌を絞って考えたんですけれど、これ、語源の話なのではないかと思い当たりました。


 昔々、「受身の形にして丁寧にした」人がだんだん多くなって来たところから、また別な意味ができました。


 その名は「尊敬」。


 「れる」はそのまんま、「れ」にしてももとの形は「れる」ですね。これは高校の古文でやった助動詞「れる」「られる」と同じものです。「れーれーる、るる、るれ、れよ!」と活用を覚えたことが思い出されます。それで、この助動詞の意味は「受身」「可能」「自発」「尊敬」の四つ。そして、高校の古文でやったような時代から今に至るまで「尊敬」の意味が消えた、なんてことありません。


 敬語の種類をあげるとき「尊敬」語がありますので、謙譲語だと仰ることと矛盾するのではないかと誤解されると困る、ということなのかもしれません。しかし、「れる」の部分に尊敬の意味がありますので、少なくとも羽毛田長官のことばを非難するのは可哀想な気がします。


 では、謙譲語だとおっしゃったのはなぜでしょうか。


 日本最大の国語辞典「日本国語大辞典」(小学館)によると、「おる」というのは、「そこにある。場所を占めて存在する。」という意味で、続けて「人の場合。自己を卑下したり、他人をさげすんだりする気持ちの含まれることが多い。」


 という引用があります。


 念のため広辞苑を調べてみると、ほぼ同旨の記述がありました。確かに、上代から謙譲語的な、「へりくだる」用法はあります。しかしながら先生は、この辞書の「含まれることが多い」の部分、たぶん余りよく見ていなかったのではないかと思います(前述のように、専門家の間では争いがあるわけです)。
 100%「自己を卑下」する言葉ならば、もちろん謙譲語と言えます。しかしグレーゾーンがある言葉を謙譲語であるとするのは、言い過ぎの感が否めません。


 また、「おる」が関西以西では「いる」とほぼ同じように使用されている、という事情があります。先生は東京生まれ、羽毛田長官は山口県の出身とのことです。ですから長官にとっては共通語「いる」と同様に考え、全くへりくだるような気持ちはないのでしょうが、東京に生まれ育った先生にとっては違和感があるんでしょうね。もちろん、共通語が絶対正しい、中国地方の方言は間違い、などというのは学者の取る態度ではありませんので、知らず知らずに出た、東京育ちの言語感覚によるものなのでしょう。


 「謙譲語とは言い切れないので、この部分の先生の発言は言い過ぎ。それに羽毛田長官は関西以西の出身であることを加味すると、可哀想」


 何だか情緒的な結論になりました。


 ただ、とはいうものの、そのように謙譲的な意味を持つ言葉を使用するのは、当然控えた方がよいと思います。批判の方法が全然なっていなくても、この点では、先生の意見に賛成です。


 長くなったので、あすにつづきます。