「天津祝詞の太祝詞事」について、きょうは折口信夫の意見をご紹介したいと思います。『折口信夫全集 ノート編第九巻』(折口博士記念古代研究所編、中央公論社)に、『延喜式』所載の祝詞を講義(ただし一部。祈年祭、龍田風神祭、大殿祭、六月晦大祓、鎮火祭、出雲国造神賀詞。他に中臣寿詞)したものが残っておりまして、これらのうち「六月晦大祓」「鎮火祭」「中臣寿詞」の各祝詞に「天津祝詞の太祝詞事」が入っております。


 ではさっそく、「六月晦大祓」の語注から。適宜段落分けしております。


(60)(前略)天から伝わる神秘な荘重な祝詞を仰せくだせ、というのだ。「のりと」は「のりとごと」の略。「のりと」は、仰せ言をくだす場所、一種の儀式を行なう場所。そこでいう語が「のりとごと」である。「のりとごと」は、荘重な告り場所でくだす、神秘な神伝来のことば。中臣のもち伝えている祝詞を唱えて、祓えの行事を行なえ、ということ。


 口語訳がない分、今回は楽です。(60)は語注の番号で、祝詞本文にも付記されています。原文を参照する方はどうぞ。


 この部分、かなり著名な「祝詞」の語源解釈(「のりとごと」の略)です。訳自体も考え方も、全くその通りではないかと思います。


 この間に、天つ祝詞の太祝詞言を唱える時間がある。そのとき、斎部の神主が中臣の下廻りのような仕事をする。その祝詞だけは、神秘なものとして、書き記していない。


 ここでヒミツの言葉を唱える、と言っていますね。斎部さんが具体的にどんなことをするのかは説明がありませんけれど、そのヒミツの言葉を唱える、というのではなさそうです。


 一説に、この文自身が天つ祝詞だというが、そうではない。ここで天つ祝詞を唱えるので、するとすっかりもとの清らかな有様になるのだが、それは省略されている。古文には、これが多い。それが後に、江戸の長唄のような、ところどころ詞章が抜けて、とんだままつづいているものになってくる。


 はっきりした理由が書かれていませんが、あえていうなら古文にはこうした例がたくさんある、ということなのでしょう。


 この天つ祝詞の太祝詞言の変化したものが、いわゆる中臣祓えである。地方の神官または陰陽道の人が、京都の吉田、卜部などに官金を納めると、中臣祓えの文句を記した巻物をくれて、これを唱えることを許す。中臣祓えにも種種ある。
 一 大祓詞をすっかり許しているもの。
 一 一部分ぬいて許すもの(半分)。
 一 一部分だけ許すもの。
 だいたい、三段ある。
 そんなことをするのは、この祝詞を間違えたのである。天つ祝詞は、別にあるのだ。それを忘れて、六月晦大祓の祝詞を読むことを許されるのが、中臣の神主として認められることになったのだ。天つ祝詞は、伝わっていない。いずれ、祓え禊ぎの起源を説いたものにちがいない。


 吉田神道で一子相伝のようにして「天津祝詞の太祝詞事」を伝えて来たことを、折口先生は知らなかったのでしょうか。でも、ヒミツは本当に誰にも知らさず、当時の吉田神道で「六月晦大祓の祝詞を読むことを許されるのが、中臣の神主として認められ」ることだとしていた、ということも、当然ありうることでしょう。
 「天津祝詞の太祝詞事」が「祓え禊ぎの起源を説いたものにちがいない」という見解は、平田篤胤とほぼ同じ線です。確かに、ハラエもミソギも神道の根本に関る思想ですから、そうした天津祝詞はあったでしょう。でも、私自身はこの「六月晦大祓」の中で何らかのヒミツの言葉を「天津祝詞の太祝詞事」として唱えるのは違うと思いますし、この語注の折口先生の考えに納得することはできません。

 つづいて次回、「鎮火祭」の語注を見てみたいと思います。