なぜ前回、出口延佳をご紹介したかというと、『中臣祓瑞穂抄』の作者だからでした。これはずいぶん以前から追って来ました「天津祝詞の太祝詞事」について調べるうちに、たどりついた書物なのです(平田篤胤の『大祓太詔刀考』に記載があったことから)。

 これまでの記事に興味がある方は、このブログのメニュー、「ブログテーマ一覧」にある「天津祝詞の太祝詞事」考をご覧下さい。

 さて『中臣祓瑞穂抄』、「抄」の手へんが金へんになっているものもありますが、ここでは「抄」を使うことにします。内容は中祓祓、こんにちの大祓詞とほぼ同内容の祝詞の注釈書です。また、使用したテクストは鈴鹿文庫本、寛文6年の板本です。西暦で1666年、出口延佳が在世中、51歳の頃のものです。円熟期と考えてよさそうですね。
 同書の末尾には小さな紙片が貼ってあって「古書売買 岡山市西大寺町電停前 内田開文堂」と赤い活字で書かれています。鈴鹿文庫はもともと鈴鹿三七さんの蔵書で、昭和42年に79歳で亡くなっているといいます。この「売」が「賣」でないことから戦後に岡山の同書店より求められたのでしょう。なお、岡山市西大寺付近の地図を見てみたのですが、この古本屋さんは見当たりませんでした。
 
 閑話休題。


 では、さっそく『中臣祓瑞穂抄』の該当部分、すなわち「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」についての注釈を読んでみます。原文は漢字片仮名まじり文ですがこれを平仮名にし、適宜句読点を補い、送り仮名は今日の一般的なものに改め、参考程度に訳をつけます。


 『旧事記』に云ふ、「天児屋命をして其解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりとごと)を掌らしめて宣らしむ」と云々。日本紀之に同じ。古事記に云ふ、「天児屋命布刀詔戸言して祷白(のみまう)すと云々。天児屋命より中臣太諄辞を掌る由来是なり。


 『旧事記』では「アメノコヤネノ命にお祓いのフトノリトゴトを担当させて宣読させる」とある。『日本書紀』もこれと同様。『古事記』では「アメノコヤネノ命がフトノリトゴトを奏上してお祈り申し上げる」という。アメノコヤネノ命以来、中臣氏がフトノリトゴトをつかさどる由来は、これである。


 ※フトノリトゴトは美称で、「祝詞」とした方が文意が通じるかもしれません。アメノコヤネノ命は中臣氏の祖です。


 『神代口訣』に云ふ、太諄辞は祓の辞(ことば)、諄は熟詞なりと云々。
 太諄辞とて卜部家に唯授一人の秘文なりと云ふて、「宣れ」と云ふ下に秘文を入れて「かく宣らば」と後段にうつるはさもあるべけれど、但し此の中臣祓の外に太諄辞はあるまじきなり。


 『神代口訣』には「フトノリトゴトは祓の言葉で、『諄』は熟語である」とある。
 卜部家ではただ一人に授けるものとして、「宣れ」の下に秘文のフトノリトゴトを入れて「かく宣らば」と後段に移る。そういうこともあるだろうが、この中臣祓の他にフトノリトゴトはないはずである。


 ※私の追っている部分はここにありました。後述します。


 或本に云ふ「白衆等各念此時清浄偈、諸法影像清浄無仮穢、取説不可得、皆従生因業」是を太諄辞なりと云ふ。
 右の点は岩出祭主流、左の点は粥見祭主為継(ためつぐ)の流れなりと云へり。両家ともに大中臣の嫡流なり。然とも是も仏家の偈を似せて和訓を付けたり。後人の所為なるべし。但し六七百年以前の書に此の偈を載せたり。知者の見解によるべきことなり。


 ある本では「ほにゃらら」をフトノリトゴトという。右の点は岩出祭主流、左の点は粥見祭主為継の流れであるという。両家ともに大中臣家の嫡流であるが、これも仏教の偈に似せて訓読みをつけたものであり、後人が作ったものであろう。ただし、六、七百年以上前の書物にこの偈を載せている。実際どうなのかは、知っている人の見解に任せることにする。


 ※「ほにゃらら」は原漢文、本文にあるようにその右に岩出、左に粥見流での読み方が書かれています。これは平田篤胤の『大祓太詔刀考』にもありまして一部にルビがふってありましたが、それともちょっと読み方が違っているようです。岩出流の訓でかすれているのか消えているのか読めないところがありますが(「業」の右)、参考まで、以下に掲げます。


篤胤】白衆等、各々此の時の清浄の偈(げ)ヲ念(おも)へ、諸(もろもろ)の法は影と像のごとく、清浄なれば仮にも穢(けが)るること無し、説を取ること得べからず、皆因業より生ず


岩出】白衆(あきらけきひと)等(たち)、各(をのをの)念(をもひたまへ)、此の時に清浄(きよくいさぎよき)偈(のりをす)、諸法(もろもろののり)は影(かげ)と像(かたち)との如し。清浄(きよくいさぎよきことなり)、仮(かりにも)穢(けがるること)無し、説(ひとこと)を取(とつて)を得べからず、皆因(かんながらよつてゆだね)業を生(なす)


粥見】白衆(あきらけきひと)等(たち)、各(をのをの)念(をもひたまへ)、此の時に清浄(きよくいさぎよき)偈(のりをす)、諸法(もろもろののり)は影(かげ)と像(かたち)との如し。清浄(きよくいさぎよきことなり)、仮(かりそめにも)穢(けがるること)無し、説(ひとこと)を取(とつて)を得べからず、皆因業生(みなたねよりなるこのみとのたまへり)



 大祓詞で「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とそれにつづく「かく宣らば」の間に何らかのヒミツの言葉を入れる、そしてその言葉が「天津祝詞の太祝詞事」であるとする見解に私は異を唱え、じゃあそれがいつからのことなのかを考えて来ました。
 ここで出口延佳は「卜部家に唯授一人の秘文なりと云ふて、『宣れ』と云ふ下に秘文を入れて『かく宣らば』と後段に……」と述べていますので、まずそれが卜部家で、つまり吉田神道で行われていたことが分ります。
 また、出口延佳自身はそれに対し、「此の中臣祓の外に太諄辞はあるまじきなり」と言っています。この本文自体が「天津祝詞の太祝詞事」と考えているわけで、賀茂真淵や本居宣長(ついでに私も)と同じ見解であります。
 北斗真拳の一子相伝ではありませんが、「唯授一人」ですか。でも吉田神道の文献のどこかに書いてありそうです。


 この部分で難しい漢文が出て来ましたが、実はこれ、「六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうおおはらえ)」の一節に、ほとんど同じ部分があります。

 

 諸(もろもろ)の法(のり)は影(かげ)と像(かたち)の如(ごと)し。清(きよ)く潔(いさぎよ)ければ仮(かり)にも穢(けが)るること無(な)し。説(こと)を取(と)らば得(う)べからず。皆(みな)花(はな)よりぞ木実(このみ)とは生(な)る。


 この祝詞の終わりは「無上の霊宝、神道加持」ですか、すると吉田神道系の祝詞ではないかと思います。
 さらには、神道五部書のひとつ『倭姫命世記』にも同様の記述があるんです。天孫降臨の際にニニギノ尊とアメノコヤネノ命がお祓いしたときの祝詞に、こうしたことばがあったのだと書かれています。そしてこれは、伊勢神道の重要な書物です。


 こんぐらかって来ますけれど、成立順から見てこのことばは、


 『倭姫命世記』(伊勢)→「六根清浄大祓」(吉田)


 と取り入れられ、さらに伊勢では「天津祝詞の太祝詞事」とされていた、ということになるでしょう。一方、吉田ではヒミツの文を「天津祝詞の太祝詞事」として、大祓詞の中で唱えていたわけです。
 また混同しそうですが、両者で「天津祝詞の太祝詞事」の見解が異なっています。吉田では大祓詞の中で唱えるものですし、伊勢ではまた別なものです。ですから「天津祝詞の太祝詞事はこれだ」という場合、けっこう注意しなきゃならないんですね。
 
 もう少し本文が残っているので、『瑞穂抄』のつづきを読みます。