○第三の文


高天原(たかまがはら)に神留坐(かみとどまりましま)す。

神漏企(かみろぎ)神漏美(かみろみ)の命(みこと)を以(もつ)て。日向(ひうがの)橘(たちばな)の小戸(をど)の檍原(あをきがはら)に。

御禊(みそぎ)祓ひ給ふ時(とき)に。

生坐(なりませ)る祓戸(はらひど)神等(かみたち)。諸(もろもろ)の障穢(さはりけがれ)を祓賜(はらひたま)へ清賜(きよめたま)へと白(まを)す事(こと)の由(よし)を。

天(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳(みみ)振立(ふりたて)て聞食(きこしめせ)と。

恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まう)す。


この詞はすべてよろしく思えるが、第二の文と合せて考えると、「命を以て」の下に「皇御祖神(すめみおやがみ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」という文を脱落してしまっている。


「諸の障穢を」の句は第二の文にもこうあるけれども、第四の文にある「諸(もろもろ)の枉事(まがごと)罪穢(つみけがれ)を」とある方が勝っているように思われる。


「祓ひ賜へ」以下は美しい古文である。あとの方であげる正文の解釈を参照。


さて、この詞は江川安豊がある神道学者から伝えられたといって、私に語り聞かせたものである。藤波家で唱えているというが真偽のほどは定かではない。