○第一の文
以下種々の「天津祝詞の太祝詞事」をあげていくが、この順番に深い意味はない。
高天原(たかまがはら)に神留(かみとどまりま)し坐(ま)す。
皇親(すめむつ)神魯伎(かみろぎ)神魯美(かみろみ)の命(みこと)を以(もつ)て。
日向(ひうがの)橘(たちばな)の檍原(あをきがはら)の九柱(ここのはしら)の神。
粟門(あはのと)及(および)速吸(はやすふ)名門(など)の六柱(むはしら)の神達。諸(もろもろの)汚穢(けがれ)を祓賜(はらひたまひ)。
清賜(きよめたま)へと申事(もうすこと)の由(よし)を、左男鹿(さをしか)の八(やつ)の耳を振立(ふりた)て。
聞食(きこしめせ)と申(まを)す。
この詞では「高天原に~命を以て」といい、祓戸神(はらひどのかみ)たちにケガレを祓い清めなさるべき旨を願い申し上げる形になっている。それがもと神魯伎・神魯美の命がおっしゃったように記しているのも、よく古意に通じており、必ずこうでなければならないと思われる。『延喜式』の「道饗祭」で「高天の原に事始め」と始まり、「八衢比古(やちまたひこ)八衢比売(やちまたひめ)久那斗(くなど)と御名は申して称辞(たたへごと)竟(を)え奉(まつ)る」うんぬんとあって「夜の守、日の守に、守り奉り斎(いは)ひ奉れ」とおっしゃったのと、似ている。
しかし「皇親」という語は(このあとに記す)第三、第四の文のように、ない方がよい。
それから「命を以て」の下に「皇御祖(すめみおや)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」を漏らしているが、これは絶対なくてはならない。また、「九柱の神~六柱の神達」は大変な間違いである。その理由は第二の文をあげたのちに記す。
「諸汚穢~申す」というところまでは、以下の文の説明を読んで判断せられたい。
さてこの詞は、いわゆる八部祓というものにも見える。吉田家によって広く世間に伝わったものである。