釈迢空は歌人、國學院大學の教授、折口信夫のことであります。


どちらかというと本業は学者の方ですが、多数の秀歌を遺しておりまして、以下の二首がよく代表としてあげられます。


葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。この山道を行きし人あり
 
人も馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけさ


折口信夫を悪くいうと母校の人に総スカンをくらいますけれど(笑)、この歌二首、暗くないですか?


演歌的な暗さや、救いようのない暗さではなく、懐しい暗さ、古来からの暗さ……。例えるなら、日本家屋の暗さに似ています。


一首目、踏みしだかれた葛の花。こんな風に踏むからには、けものではあるまい。誰もいないこの山中に、他の人がいるらしき痕跡を見つけてほっとしたが、じゃあ、これを踏んだ人はどんな人で、どこへ行ったのだろう。


二首目、旅人も馬も、道を歩くのに疲れ、やがて死んでしまった。しかしそんな記憶も、長い旅路にあっては、少しずつ薄らいで、かすかなものになっていく。


あくまでも私はこう鑑賞するというだけであって、人によっては全く違った印象を持つかもしれません。


そうだとしても、暗いですね。


「あの世」をどのように見るか=他界観について、折口信夫は「常世国」を想定しました。これについて書いたものが、また暗い。それに対して、民俗学では師筋にあたる柳田国男が、ニライ・カナイ(沖縄で信じられた他界)について書いているのを読むと、すごく明るい印象を受けます。


暗い暗いといっていますが、別に暗いこと自体は悪いことではありません。むしろ底抜けに明るいと、つい警戒してしまいます。


別に暗くないだろうという方のために、最後にこんな詩をご紹介しましょう。タイトルは『鎮魂頌』、信時潔の作曲で昭和34年に歌としても発表されています。


思ひみる人の はるけさ
海の波 高くあがりて
たゝなはる山も そゝれり。
かそけくもなりにしかなや。


海山のはたてに 浄く
天つ虹 橋立ちわたる。

現し世の数の苦しみ
たゝかひにますものあらめや。


あはれ其も 夢と過ぎつゝ
かそけくも なりにしかなや。
今し 君安らぎたまふ。
とこしへの ゆたのいこひに


あはれ そこよしや。
あはれ はれ さやけさや。
神生まれたまへり。
この国を やす国なすと
あはれ そこよしや
神こゝに 生まれたまへり