忙しい人のための今日のまとめ。


「天津祝詞の太祝詞事」に対する態度は、一般名詞的な把握(ない)と固有名詞的な把握(ある)に分かれます。そして、『延喜式』内の「六月晦大祓」以外の祝詞における用例を見る限りでは、一般名詞的な把握の方が自然です。また、「天津祝詞」は高天原に由来し、神々の御手振りのままに祝詞を奏上するとの含意があり、「太祝詞事」はそのような経緯も踏まえた上で、誠心誠意をもって書き記された祝詞と解釈できます。ある・ないによって、解釈にそう違いはないと思います。


では、時間に余裕のある方は、以下をどうぞご覧ください。


じゃあ、一体「天津祝詞の太祝詞事」って、何なんでしょう。


「天津祝詞の太祝詞事」に対する態度を大きく分けると、二つの立場があります。

そのような秘言・秘詞が「ある」のか「ない」のか。


その内容としての秘言秘詞を想定する人は、「天津祝詞の太祝詞事」を、いわば固有名詞的に捉えています。ないとする人は、祝詞全般を指すと考える、いわば一般名詞的なものと捉えているわけです。


さらに「ある」立場を細かく分けると、「あったが今は失われている」と考える人、「今もある」と考える人の二つに分かれます。


言い換えてまとめると、「天津祝詞の太祝詞事」は具体的な内容(秘言秘詞)を、


1、持たない・・・・・・(一般名詞的な把握)

2、持つ・・・・・・・・・・(固有名詞的な把握)
・・・・・・・(イ)あったが今は失われている
・・・・・・・(ロ)今もある


2(ロ)はさらにその内容の種別に分けることができます。「トホカミエミタメ」「アマテラスオホミカミ」、「高天原に神留り坐す・・・・・・天の斑駒の耳振り立てて恐み恐みも白す」。他にもあるかも知れません。とにかく「これが天津祝詞の太祝詞事だ」というものはみんな2(ロ)に含みます。


話は変わりますが、例えばこうした秘言秘詞について、絶対に昔の発音じゃなきゃいけないと強弁する人を、私は信じません。昔の音を完璧に守ってその言葉を発することなど、我々にはできやしないからです。明治以降ならいざ知らず、さかのぼればさかのぼるだけ、我々には発音しにくくなります。


例えば「オホミカミ」は、現在の発音に近づけて書くと「オーミカミ」でしょう。はっきり区切るときは「オオミカミ」で、「オホミカミ」は歴史的仮名遣いで書かれていると理解して、「ホ」を「ホ」と発音することはありません。歴史的仮名遣いの知識がない以外には、あえて昔の発音であることを意識しなければ「ホ」を「ホ」と発音しはしません。


しかし、これを信長や秀吉ならば「おふぉみかみ」と読んだでしょうし、山上憶良なら「おぽみかみ」と読んだでしょう。これは国語学の研究から分っていることですが、それでも奈良時代くらいまでのことまでしか分らないわけです。古代の人間と我々とでは、食べ物も違えば、骨格も違います。まして神代の発音など、とても分りません。神伝の「天津祝詞の太祝詞事」だという場合には、そのあたりもフォローしてもらいたいと思います。また、チャネリングして、とある神に教えていただいたというなら、そのときの発音がどうだったのか。我々にも分る発音だったとしたら、なぜなのでしょう。


そのような考え方をする人のための逃げ道はありますけれど、ここでは詳しくあげません。


本題に戻りまして、『延喜式』において昨日引用した部分の文脈には、「ここで『天津祝詞の太祝詞事』を唱える(唱えたのでは)」と解釈できる箇所がありません。そこで少なくともこの引用部分については、「天津祝詞の太祝詞事」は祝詞の美称に過ぎないのではないかと考えます。


「美称に過ぎない」というと不敬な印象がありますので詳述しますと、「天津」=「天都」はいずれも「天つ」、「天(高天原)の」ですから天津祝詞は「天の祝詞」「髙天原の祝詞」です。この「の」は「~に由来する」「~の神々より授かった」「~で行われていた」など様々な解釈ができます。いずれにせよ、祝詞を奏上することは、もともと高天原で神々が行っていたことだという思想がうかがえます(まあ全てそうだともいえます)。


「太祝詞事(辞)」の「太」は「立派な」ということで、『古事記』の天石屋戸の段にも「フトノリトゴト」と訓じることのできる語句があります。そして、もとノリトゴトといっていたのがノリトと称するようになったといいます。したがって古風な形は「アマツ・ノリトゴト・ノ・フトノリトゴト」となります。また、このことから「天津祝詞の」はのちに付け加えられたのではないかとも、単にゴトが抜けたとも、両方考えられますけれど、今私は判断する材料を持ちません。


いずれにせよ、「天津祝詞(事・辞)」は高天原より授かった祝詞でありまして、我々は神々の御手振りのままに現在も祝詞を奏上している。そして、「太祝詞事(辞)」は、そうした経緯も踏まえ、真心こめて記した祝詞である、そう解釈できます。具体的な秘言秘詞を想定する・しないに関らず、こうした「天津祝詞の太祝詞事」の解釈自体はそう変わらないと思います。


では、明日はいよいよ今日の「大祓詞」の原形、「六月晦大祓」を見てみたいと思います。