陰徳と陽徳に対する気づきについて。
3月も後半にさしかかり、寒さが和らいできたので、
久しぶりに登山をしようと思い、昨年秋ぶりに登山道や休憩所のごみ拾いをしてきました。
当日は多くの方が登山をされていて、
すれ違う人には挨拶をしようと決めて、ひとりひとりに声をかけていました。
その中で、ごみ拾いを労ってくださる方が複数名おられました。
そこで感じた気づきです。
---
・町のごみ拾いと、登山でのごみ拾い。
同じ行為でも、感じるものや起きる反応が違うことに気づきました。
町のごみ拾いは、すれ違う人の数は多いですが、
基本的に声をかけられることはあまりありません。
一方で、登山中のごみ拾いは、
出会う人の意識が近いのか、労いの言葉をかけてくれる方が複数人おられました。
環境として、会話が生まれやすい距離感なのかもしれません。
---
ここだけを見ると、
反応が返ってくる登山道のごみ拾いの方が良い、という話になりがちですが、
私はそうではないと感じています。
町のごみ拾いは、反応が少なくても続けることで、
自分の在り方を保つ訓練になると感じています。
誰に見られていなくても、淡々と続ける力。
---
一方で、登山道のごみ拾いは、
人との接点が生まれやすく、影響が循環します。
自分の行為が、その場の空気や人に伝わる感覚があります。
---
・誰も見ていなくても徳を積むことを「陰徳」
・誰かに見てもらうことも含めて徳を積むことを「陽徳」
とするならば、
陰徳が大事だとか、陽徳は良くないとか、
そういった見方もあると思います。
ですが今回の経験を通して、
陰と陽のどちらかではなく、その間にある「中庸」が大切なのだと感じました。
---
その時の状態や場に応じて、自然に行き来すること。
陰徳が良い、陽徳が良い、ではなく、
どちらも役割があり、どちらも必要。
中庸の在り方の中で、
陰徳と陽徳をバランスよく広げていくことが大切なのだと思います。
---
陰と陽。
整える時間と、広げる時間。
静と動。
そのバランスの中で、
自分の在り方が磨かれていくのだと感じています。
---
※本文章の整理にはAIの補助を使用しています。
- 前ページ
- 次ページ