留学生と共に「災害支援」 | イイコトとの懸け橋「社会貢献探訪記」

留学生と共に「災害支援」

これまた古いネタですが、今でも災害援助を行う際に必要と思えるような活動を紹介します。


2004年12月26日にスマトラ沖地震がおきたときのことです。

私は、当時「TSUNAMI留学生帰国支援」という活動に関わっていました。


この活動は、現地で私たち市民がもっとも意味のある活動をするにはどうしたらよいのか!?

という時にひとつの指標になるようなものだと思います。


まず、被災地の活動ではどんなことを必要としているか。


・現地の地理感覚、社会情勢等に熟知している(情報の収集と現地コーディネート)

・現地の方とのコミュニケーションをしっかりと取れる(的確な状況判断)

・必要物資、必要技術の手配(本当に必要とされていることの把握)

・活動拠点の確保(現場での物資保管や生活の確保)

・継続的に支援を続けらること(一時ではなく、世間から目が遠ざかっても続いていること)

これらのことは、活動を進める上で重要な点になります。

インドネシアのアチェ(最も被害が大きかったところ)で活動を考えていた際には、

私自身が単身で行っても上記の点を網羅はしていませんでした。


そこで、日本にはたくさんのインドネシアからの留学生がいるとのことで、その方たちと

一緒に現地に向かうことになりました。そのことにより、上記の点を一気に網羅することに

なったのです。


これを考えたのは、私ではありません。OPEN JAPAN、神戸元気村(阪神大震災の時に活躍した団体)の

考えた活動でした。


私は、その活動に協力をして、早速個人としてもタイ、インドネシアの被災地に向かいました。

そして、日本から帰国した留学生と共に活動をしました。


日本で募金を集めて、彼らの帰国にその費用を当てました。

また、それ以外にも必要な物資を現地の情報を元に手配して運びました。


当時の私の簡単な報告がありますので、以下に記載します。



当時の写真をフォトシネマにしましたので、参考程度で見てください!

TSUNAMI フォトシネマ
(※注意:音楽が流れるのでお気を付け下さい!音譜)


----------以下は当時の記録です。-------------

タイ、インドネシアから帰国しました!(2005-3-5)


湯川です。
さきほど、日本に帰国しました!
40度近い場所での生活から一気に雪の中へ・・・。体がびっくりしています。

さて、簡単に私からの報告をさせていただきます。


●タイに関して
私はカオラックでボランティアをしてきました。


タイの中でもプーケットに関しましてはもうほぼ回復してきています。


ただし、観光客の足が遠のいていますので観光で成り立っていた場所だけに苦しい状況になっております。私はバンコクなどであった旅行者たちにプーケットを宣伝していました 笑。


カオラックに関してはまだまだ復興はしていません。しかし、メインストリートは津波による被害はありませんので、ゲストハウス、レストラン、スーパーマーケットなど生活をする場所は全く被害はありません。

ここには、ボランティアセンターがありますので個人で行っても簡単にボランティアをすることができます。
家を作るボランティアやクリーンアップ活動、学校の支援など特別な技術がない人でも参加することができます。
もし、周りでタイに行きたい人がいましたらぜひともカオラックを勧めてください!


ここは過去に一度も伝染病の類が発生したこともありませんので危険は全くありません。それどころか、もともと観光地ですので英語も通じますしご飯もおいしい、海に沈んでいく太陽もきれいでただ行くだけでも、楽しめる場所です。
(当時は、伝染病にかかるとの噂があり、渡航も制限するように言われていました。)


できれば、多くの人にボランティアとしていってもらいたいですが、観光をするだけでも地元にとっての支援につながります。
バンコクで会った人も何人かカオラックに行ってくれることになりました。今なら私の仲間がまだカオラックにいますので、いつでも受け入れますよ!



●インドネシアに関して
私はムナディさん(日本に来ていた留学生)のおじさんの家に泊まらせてもらっていました。


暖かい家庭でした。大変快適にすごすことができました。
ムナディさんの弟やいとこたちとも仲良くなってきました。
実際の活動状況ですが、ムナディさん、サフアンさん、シャウカニさんたちと一緒に活動していました。
(彼らも以前日本に住んでいたことがあります。)


具体的には、以前東洋大学に留学していたリーダさんという方を代表としての団体を発足しました。

日本に留学してた人たちや、現地の学生たちを中心としたメンバーで構成されています。みんながアチェに関する情報をたくさん持っています。


私たちが支援に向かった先は、本当に支援の手が届いていない場所でした。
例えば、ある学校では生徒たちはみんな学校の寮で生活しています。

そこは津波の被害は全く受けませんでした。しかし、家族や親戚が全員なくなってしまったという学生もいます。


これから学校に通っていけるのか、どうやって生活をしていけばいいのか……。そのような不安があります。

しかし、直接的に津波の被害にあっていない彼ら(彼女ら)には全く支援はきません。


そのような場所を探して、実際に必要な物資や少しの間生活できるためのお金を渡したりもしました。

サフアンさんとある漁村に行ったときに、家も船も流されてしまった漁師の方とお話しをしました。

その時に言っていたことが、「政府や大きな団体になんか物やお金を渡さないでくれ! 彼らはおれたちに何もくれない。だから直接おれたちに渡してくれ!」と。

大きな団体にしかできないこともあります。そのため彼らの存在は必ず必要です。

しかし、それだけでは十分ではありません。

そこを私たちが回っていこうとしています。


サフアンさんが言っていました。
「彼らにお金や物を与え続けることは本当の支援にはならない。一時的に助けることはできるが、支援が止まったらどうなるのか……。
例えば、漁師たちには何人かのグループにひとつの船を買ってあげる。そうすれば、自分たちで働いてお金を稼ぐことができる。自分たちの力で生活をすることができるようになる。」


私は瓦礫の山から、使えそうなものを集めてそれを売って生活しようとしている漁師たちに会いました。
彼らは、出来る限り自分の力で生活をしようとがんばっています。
彼らは自分たちで家を作ることだって本当はできるのです。ただ家を作ってあげるよりも、彼らを雇ってあげて家を作れば自分たちの力で自分の家を作れるのです。


生きる気力に、自分で生活しているという誇り。

彼らは、施しを受けながら生活をすることを望んでいるわけではないように感じました。
ただ、何もやることがなく瓦礫の山を見つめている人々だって、働きたがっている。

これこそが、私たちにできる最高の支援になるのではないでしょうか。

そして、今回ムナディさんたちとは、地元の人々による、地元の人々のための支援を行ってまいりました。



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