ここではシャイニングレイの育った環境や家族関係の中で、”辛かった、苦しかったこと”を載せています。
人は弱さもあれば、強さもある。
狡さもあれば、優しさもある。
自分も親も他の人たちも”そうなんだ”、”同じなんだ”と
受け入れられるようになってきて、
苦しいだけじゃなく、楽しい思い出もたくさんあったことに
今は気づけるようになったのかもしれません。
ただ望むものが”当り前”に差し出されなかった時、
受け入れることができなくて、
悲しさや怒りを吐き出す機会を見つけられないまま、
その感情たちが重く深く沈んだままになっていたのでしょう。
でも今振り返ると、『全て自ら選んできた体験だった』と、
そして『魂の学びのために全ては必要なことだった』と思っています。
(2017.12)
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家族の障害や病気、家庭内不和、親の別居や借金、両親や親族の争いの中で育つ。
近所の人たちとストリップに行ったと、上半身裸で踊って父を責める母。
包丁片手に、同じく上半身裸、パンツ一丁で布団の上で首を絞める母を止める父。
小学生時代に見たその姿は強烈な記憶として残っている。
(※ 母は心の病を抱えていたため、興奮すると常軌を逸した状態になっていた。本人の意思ではない行動であったことが、かなり後になってから判明した。)
母が父の親族との争い時には、母の言うことを小五のわたしが父の親族に伝えたり、日常で父の悪行を聞かされ、父母の争いでは途中から母に代わって父に暴言を吐き戦う役割を担っていた。
幼いころ大好きだった父親との離別と別居、家庭環境や人間関係、母親の強い執着、支配などから、“頼るものは自分とお金だけ”だと学ぶ。
人間不信や対人恐怖を抱えながら就職。抑うつ神経症も発症し薬を飲みながらも仕事を辞めることができず心は疲弊していく。
母は心の病から興奮状態の時に掴みかかってくるため、食事、トイレ、風呂などの普通の生活を維持することが難しく、近所の銭湯に行って戻ると何度も玄関の鍵が開かず、庭で朝まで過ごしたり、銭湯に戻って朝まで脱衣所で過ごしたこともある。
仕方なくビジネスホテルを頻繁に利用しながら、母が落ち着いたときは家から会社通勤もしていたが、それも限界を感じ、保証人のないままアパートでの一人暮らしを始める。
そして月日が経ち、今度はそれに重なる突然の母親の介護。
「どうやって生きていけばいいのか…」
仕事に行けず、途方に暮れ、近所の寺の境内や母親の薬を取りに行った病院待合室で、いつの間にか目から涙が零れていた。
これまで何度も訪れた、もうどうしたらいいかわからない状況を迎えた時、本当に限界を感じたら“苦しまない方法で消えればいい”と腹を括ってきた。
小学五年から、ほとんど一人でサポートしてきた母親が、昨年末に他界。なかなか愛することができず、そんな自分が嫌だった。
母親を愛したかった。
父親が他界後と同じ後悔を二度と味わいたくなかった。
(父親はすでに20年以上前に他界。)
必死で通ったセラピー、瞑想、自己啓発のお陰か、その願いも数年前に叶った。母親の抱えていた暗闇に寄り添えたのだ。
その日から関係は変わった。
そして母親は、いろいろありつつ、最後は一人残すわたしのために命の限り生きてくれた。
今はこれまでが嘘のような穏やかで静かな時間が訪れ、やっと長い間放置してきた自分の“心と感情”に寄り添って過ごしている。