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浄土真宗本願寺派信行寺・僧侶ブログ

浄土真宗本願寺派信行寺の僧侶が日々を綴ります。

皆さまいかがお過ごしでしょうか。

なかなかコロナ感染症は落ち着かず不安な日々が続きます。

 

ところで、仏教は不安の原因を外ではなく自分の内側に求めます。

たとえばコロナ感染症で不安になることも、私が生きていて「いのちがあること」が

原因だからと説きます。

いのちあることを因とし、コロナ感染症を縁として、苦しみが生じていると説くのです。

 

そうしますと、私の苦しみは、いのちあることを因としますから、生きているかぎり続く

ということがいえます。

では、苦しみはなくならないということなのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。

 

お釈迦さまは、「人生は苦なり」と説かれましたが、同時に苦から抜け出す方法を

説かれたのでした。

それは極めて独自の方法でありながら、万人が実践できる方法でした。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

 「いのちは大切と言う人は多いが、

 いのちを粗末にしていると気づく人は少ない」(法語)

 

私たちは標語が大好きです。CMでも、「いのちは大切に」という言葉はよく聞きます。

また法話でもよく聞く話かもしれません。

しかし、実際に、本当に「いのちを大切に」している生活を私たちが送っているのかと

自問すれば、はなはだ怪しいと言わねばなりません。

いじめはなくならず、食べ物は残し、蚊などの虫は殺し、まして自分の健康状態にも気を配らず。

「いのちは大切」とは、立派な言葉であっても、実行することはとても難しいです。

 

いま、真宗の教えに照らせば、「いのちを大切に」するということは、実は、

「いのちを粗末にしている」と気づくことにあると教えてくださいます。

あー本当にいのちを粗末にしているなあ。お粗末な私でありました、と。

反省といえば反省ですが、仏教では慚愧(ざんぎ)といいます。

自分勝手にいのちを考え、いのちを私有化する私に、それが罪であることを

教えてくれています。

 

信行寺 小林

「 苦しみも 悲しみも

  自分の荷は自分で

  背負って歩かせてもらう

  私の人生だから 」  (東井 義雄)

 

 仏教では自業自得(じごうじとく)ということを言います。かねて自業自得は自己責任に近い随分と厳しい言葉だと思っていましたが、

東井義雄さんの言葉を聞くと、もしかすると自業自得とは、このような受け止め方が本来なのかと考えさせられます。

 つまり自業自得を 「自己責任だから」「あなたの行いの報いなのだから」としてしまうと、家族や社会、国家の問題の責任を都合によって

個人ひとりに責任を負わせる転化の言葉となってしまうのです。

 しかし、そのような苦しみも悲しみも、他所から降ってきた運命として嘆くのではなく、また自己責任という捉え方でもなく、ただ静かに自らの

分の荷として自分が背負わせていただくというところに念仏者の歩みの尊さを感じます。

 自業自得があきらめの言葉でなく、自分が立ち上がっていく、歩んでいく言葉として受け止めることができます。

 なむなむ 釋祐謙

 

 

人生がわかるのは 逆境のとき

 

あるお寺の掲示板にありました言葉です。

今年の3月11日で東日本大震災から10年が経ちました。

本当に未曾有のことであり、日本人にとってあの日のことは誰も忘れられないことだと思います。

特に東北、福島の方々のこと。とりわけ子どもたちのこと。また政府や東京電力のこと。あの1年におこった

濃厚すぎるできごとは今現在も続いています。

 

順境のときはなんでもなかったことが、逆境のときに本当の姿をあらわします。

人生もそうなのでありましょう。本当の困難に出会ったとき、自分の真価が問われます。そして人生の意味が問われます。

皆さん、逆境の苦しいときを、大事に頂いてまいりましょう。

苦しいけれど、人生がわかるのは、逆境のときだから。

 

なむあみだぶつ。

釋祐謙

  

ナムナム 皆さん いかがお過ごしでしょうか。

春秋苑の標高は100mちょっと。でも周りの場所よりちょっと高いので、見晴らしは良いです。

管理棟まで来ますと、東は新宿やスカイツリー、南東は横浜のランドマークタワー、西は丹沢から秩父まで一望できます。

昨日は冬の快晴。富士山がきれいに見えました。西の方角に合掌。