はじめに


総本山第9世日有上人は、

第26世日寛上人とならび、

古来、

本宗における「中興の祖」として尊崇を受けてきました。


その具体例をいくつか紹介しますと、

まず「有師堂」の存在が挙げられます。

有師堂とは、

本宗の古刹である妙教寺〈宮城県栗原市〉·常泉寺〈東京都墨田区〉·真光寺〈千葉市緑区〉などの諸寺院に建立されていた堂宇です。


また、

日有上人ゆかりの寺院には上人の御画像が現存しています。

なかでも、

上人が晩年隠棲(いんせい)された大杉山の地に、

後年建立された有明寺〈山梨県身延町〉には、

日寛上人が日有上人のお徳を偲ばれる讃文を認(したた)めた御画像が所蔵されています。


さらに、

日有上人御遷化後、

その高徳を慕って廟所(びょうしょ)のある大杉山に参詣する僧俗が絶えなかったと言われています。

それを物語るように、

江戸時代の記録によると、

廟所への参詣者が列をなし、

沿道の民間は皆、

旅館に様変わりしたと伝えられています。


いずれも、

日有上人に対する強い尊崇の念の表れであり、

中興の祖と仰がれる上人の鴻徳(こうとく)を伝えるものと言えます。


尊崇を集めた理由としては、

「一日片時も屋(いえ)などに心安くあるべき事あるまじき事あり」〈御物語聴聞抄·歴全1-325〉

という日有上人の御精進に拝されるように、

その御一生の中で、

諸国を東奔西走(とうほんせいそう)しながら、

諸宗の僧侶や在家の人々に富士の正義を宣揚されたこと。

また、

その途次で各地の人々が抱える苦悩に寄り沿われた御事績が、

様々な逸話(いつわ)·伝説として伝わることからうかがえます。


第59世日亨(にちこう)上人は、

日有上人の御事績を大きく次の三点にまとめられています。


①総本山境内の復興整備をされたこと。

②生涯にわたって各地に布教行脚(あんぎゃ)されたこと。

③時代の趨勢(すうせい)に相応した化儀を整足されたことです。


特に刮目(かつもく)すべきは、

宗開両祖巳来の血脈相伝に基づいた教学·行法·所在など、

宗門の化儀を整足され、

それらお弟子方が聞書(ききがき)として筆録されました。

かの有名な『化儀抄』は当時の富士門流各山にも大きな影響を及ぼし、

また現在も第二祖日興上人の『遺誡置文(ゆいかいおきもん)』とともに、

総本山大石寺の三法山規の基盤となりました。


日有上人が御自身の御生涯を回願されたものはありませんが、

お弟子方の聞書によって御事績の一旦を垣間見ることができます。

ただ、

こうした断片的な情報では、

日有上人の往年の様相を今に蘇らせることはなかなか困難ですが、

日有上人の60余年間にわたった御化導を拝し、

今もなお光彩を放つ数々の御功績を紹介していきたいと思います。




日有上人の時代背景


鎌倉幕府の滅亡によって政治の中心が京都に移行したことにより、

関東に拠点を置いていた日蓮門下各派も陸続と京都に進出し、

洛中(らくちゅう)に多くの寺院が建立されていきました。


特に大きな流れを作ったのが日朗門流で、

四条妙顕寺·六条本国寺など、

合従連衡(がっしょうれんこう)を繰り返しながら分派を続け、

さらに多くの門流を生ずるに至りました。

それは同時に、

各派の諸師によって大聖人の教義とは似て非なる新たな邪義が喧伝(けんでん)されることでもありました。


当時の世間は、

南北朝の合一を果たした将軍·足利義満(よしみつ)が、

隠居していたとは言え、

政治の実権を握っている時代です。

義満は西国の有力者である大内義弘を討伐(とうばつ)し、

対抗する勢力を西日本まで排除します。


しかし、

絶大な権力を握った義満没後、

正長(しょうちょう)の土一揆や後南朝精力的の動き、

さらに将軍と守護大名の力関係が様々に変化していくなかで、

いくつもの戦乱が起きます。


日有上人が遷化されるのは文明14(1482)年ですが、

その間には応仁·文明の乱(1467~1477)が勃発し、

特に文明期には激しい戦乱が続いたのち、

明確な勝者もないままに終結を迎えました。


そして時代は、

群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代へと移り変わっていくのであり、

日有上人はそのような下克上(げこくじょう)の時代にあって、

一宗を統率されたのです。



○日有上人御出生当時の大石寺


日有上人が出生される頃の大石寺の状況はどのようであったかを述べていきます。


御出生(応永9〈1402〉年4月)から遡(さかのぼ)る70年前、

元弘3(1333)年に鎌倉幕府が滅亡し、

京都に天皇を中心とする新たな体制が敷かれることになりました。

第三祖日目上人はすでに高齢でしたが、

この時を好機として天奏の決意を固められ、

出発に先立って同年10月、

直弟子の日道上人に唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈を相承され、

翌11月、

日尊師と日郷師をお供として京都へ向かわれました。


その道中、

美濃(みの)の垂井(たるい)〈げんさいの岐阜県垂井町〉の宿に至って病床に伏され、

日尊師·日郷師に天奏の完遂と日道上人への報告を遺言して、

11月15日、

74歳で入滅されました。

その後、

二人は日目上人の御意のままに上洛し、

日郷師は日目上人の御遺骨を抱いて12月に大石寺へ帰山しました。

同年12月には日興上人が入滅したばかりで、

門下一同の動揺と悲嘆は大きなものでした。


日行上人、

第6世日時上人は、

不安定な時代の背景のなか、

問題の終息に向けて尽力されました。


この東坊地問題はその後、

応永12(1405)年、

日時上人の時に全面的に大石寺に帰属することで解決しました。


保田門流と大石寺東坊地の安堵をめぐる問題により、

大石寺は一時、

疲弊の憂き目を見ることになりましたが、

日有上人が登座され、

富士門流を復興すべく卓越した叡智

もって尽力されたのでした。



○出自について


第17世日精上人の『富士門家中見聞〈※以下『家中抄』と略記〉』には、

「釈の日有、

俗性は南条、

日影の弟子なり。

幼少にして出家し、

師の教訓を受け法華を習字し、

又御書を聴聞す」  〈聖典924〉

とあります。


日有上人は、

大聖人御在世当時の檀越で、

総本山大石寺の開基檀那である南条時光を先祖に持つ家柄の御出身です。

応永9〈1402〉年4月16日の御出生が伝えられています。


風光明媚な霊峰富士の麓(ふもと)、

富士郡上野郷〈現在の富士宮市下条周辺〉にて、

本門戒壇の大御本尊の御威光に照らされながら、

信心強盛(ごうじょう)な御家族の訓育のもとで幼少期を過ごしました。

誉(ほま)れ高き南条一族の期待を一身に背負い、

早々に総本山に登られ、

第8世日影上人を師匠として出家得度されました。


『家中抄』によれば、

師匠である日影上人の出自も南条氏であり、

また遡れば第三祖日目上人をはじめ、

第4世日道上人、

第6世日時上人も南条氏有縁の出自と伝わります。

総本山大石寺と南条氏の仏縁·命脈は、

のちに中興の祖と仰がれる日有上人の御誕生によって、

さらにその意義を深めたと言えましょう。


〈つづく〉




『妙教第373号令和5年10月号  中興の祖 日有上人伝1』より引用