「上海にて」
 
 それは上海のひどくうらぶれた雑居ビルのうらぶれた一室であった。僕が部屋のチャイムを押すと数秒間があって「どなた?」とインターホン越しに声がした。「張り紙を見てきました」と僕が言い終わらぬうちに会話機能は切断され、しばらくしてから男が出てきた。男は片眼が義眼であった。その青く美しい水晶体とは裏腹に、男の人相には一筋縄ではいかない凄みがあった。「どうぞ」と言葉少なに言われて僕は奥へ通された。ここでしばらく待つように言って男はさらに奥の部屋に消えた。僕はなるべく部屋の中を見ないようにした。おかしなものが目に留まっては自分の身が危ない気がしたのだ。やがて扉が開くと男が半身を出して「入りなよ」と言った。やはり危険を感じたが僕は意を決して奥の部屋に入った。そこは簡素な部屋だった。ベッドが一つの他には生活に最低限のもの以外何もないといってよかった。テレビすらなかった。ベッドの上には女が半身を起こしてこちらを見ていた。美しい女だった。黒く長い髪に大きく澄んだ目、どことなく危うさを孕んだ目だった。「そこに掛けて」と男はベッドの前に置かれた丸椅子を指して言った。僕は従うしかなかった。「手を出して」。やはり僕は男に言われるままおずおずと手を前に出した。するとベッドの上の女が僕の手を取った。自然、僕と女は顔を合わせて向き合う形になった。そのどこまでも透明な瞳は僕自身をも透明に、丸裸にしてしまうようだった。途中、男が女の顔を見た。そこから何かを読み取るように。僕はドギマギとした。僕自身も知らない秘密を読み取られてしまったのではないかとふと思った。女が手を離したとき、僕の両手は緊張で汗ばんでいた。僕は赤くなった。「もう行っていいよ」、男がそういって封筒を手渡した。「あの、本当にこれだけでいいんですか?」「ああ」男はそう言ったきりこちらを身もしなかった。僕はそのビルを後にしたとき、やっと一息つくことが出来た。張り紙には「邦人求む。日当多額」とあった。普通なら近寄らぬ方が良さそうなものであるが、生憎そのとき僕には金に困る事情があったのだ。それからしばらくして、日本人が一人、上海の路地裏でひっそりと殺されていたという知らせが、やはり路地裏界隈の社会で出回った。彼もあの部屋に行ったのだろうか?そしてあの美しい女と義眼の男に会ったのだろうか?どちらにせよ、僕は二度とあの部屋に近づく気は無かった。