若葉薫のブログ ~この美しい国日本に生まれて~

若葉薫のブログ ~この美しい国日本に生まれて~

生まれて来て初めての記憶は、母の背中に負ぶわれて、一緒に蛍を追った思い出だった・・・

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私が3歳4.5か月の冬のある朝、私は布団の中で、人の声や景色が湧いてくる不思議な箱に出くわした。恐らくそれまでにも家にあったのだろうが、その時に改めてその存在を認識したのだろう。その後しばらくたってからそれがテレビだと認識することになる。

 

家の外では、白い冷たいものが降っていたようだが、部屋の中では布団の中で温かさに護られていた。その不思議な箱からは、何やら心地よい歌声が聞こえて来た。「ゆ~き~のふ~るま~ちを~…」

ダ-クダックスによる男性混声合唱だった。

 

家の外は、真っ白な雪景色で、粉雪が深々と降っているのが見えていた。

 

「雪の降る街を」の短調な旋律には鉛色の雪降りの景色のイメ-ジを持ったが、長調に転調する後半部分には爽やかな朝日が昇るイメ-ジを見ることが出来て、そのコントラストには、幼心にも芸術性を感じた。

 

これが私の音楽との最初の出会いだった。
 

雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から 落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
(あたた)かき幸せのほほえみ・・・

 



 

更に数か月後の冬のある日に馴染みの女性母親と私は一台のトラックの助手席に座っていた。

何やら荷台には家の中で馴染みだった家具が幾ばくか積まれていたようだった。

 

普段何となく同じ家に住んでいた大きな男性と私より背が高い女の子が居たが、その人達は荷台に乗っていた。

 

それまでにボンネットタイプの路線バスや電車などには母親との外出時に乗った事があったので、それが乗り物だという事の認識はあった。

 

武蔵野から町田への道のりはどれぐらいの時間がかかったかは定かではないが、新居に到着した時には、幼心にも引っ越ししたのだなと理解した。

 

町田での生活が始まった事で、家が一家4人の家族だという事を認識した。

 

私が3歳4か月ほどの時の事である。

 この世に生まれて来て初めての記憶は、母親の背に負ぶわれて、一緒に蛍を追った思い出だった。2歳10ヶ月の七夕時期のこのシ-ンは今も強烈に心の中に焼きついている。

 

物心がついたとき、私は武蔵野市の一角、旧武蔵野女子学園(現武蔵野大学中学高等学校)の近辺に居たように記憶している。

 

両親に連れられての外出で、旧五日市街道に沿って水をたたえた玉川上水を橋で渡ると、近くの大きな交差点には、斜めに構えた旧武蔵野女子学園の校門があって、背が高いお姉さん達が体操服姿で何かスポ-ツをしていたり、制服姿の女学生達が歩き回っていたのを見ることが出来た。

 

その頃の私は、恐らく2歳と数か月で、まだ両親のハッキリとした顔の認識すらなかった。全てがボヤ~としていて、誰が何をどの様にしていたとの認識は出来なかったのだろう。全ての人が自分より遥に巨大な存在で、自分にとっては誰もが両親と同じような大人だった。

 

その頃やっと認識できたものと言えば、温かく心地よい声を発する馴染みの女性母親と、こげ茶色のコーデュロイの負ぶ紐と、三鷹行きのボンネットタイプの路線バスだった。

 

何かもう一人が居るなと感じていたが、自分に対する関係者だとはわからなかった。そしてその人が話す日本語の内容は理解する事は出来なかった。その人が私の父親だとわかるまであと数か月が必要だった。

                  

ご清聴ありがとうございました!