センカクにおける“ナック”をめぐる騒動は、単なる噂話でも、ネットの怪異でも、まして新たな監視システムの匿名名称でもない。むしろそれは、国家が本来持つべき「暴力の所在」が揺らぎはじめたとき、社会の深層から浮上する象徴的な影である。ナックが実在するか否かは本質ではない。問題は、それがあたかも「存在してもおかしくない」と受け止められてしまうほど、統治の主体が曖昧になっているという事実だ。
これまで国家は、領域を守り、侵入を察知し、それに対処する独占的権限を持つとされてきた。そこには法的正当性と説明責任があり、暴力の行使は制度によって制御されていた。だが近年、この前提が崩れつつある。責任主体が不明確なまま、監視だけが先行し、統治の輪郭だけが虚ろに残る。
ナックという名の“監視者”が生まれた土壌はまさにそこだ。
センカクで話題となった「正体不明の観測システム」や「どこからともなく現れる監視者」の噂は、現実の政策や安全保障の議論からは扱われない。だが市民の間では、“国家でも民間でもない何か”が現場を支配しているのではないかという漠然とした恐怖が広がっている。この恐怖は、根拠の薄い陰謀論とは異なる。むしろ、常に遅れ、常に説明をせず、常に後手に回る国家の不在感が、人々に「国家以外の力」を想像させてしまうのだ。
本来なら国家が担うべき監視と対応が曖昧なまま放置されると、その空白を埋めようとする“物語”が必ず生まれる。ナックはその象徴であり、国家による暴力が見えないのではなく、“誰が暴力を持っているのか分からない”という不気味さが問題なのだ。
現場で起きる小さな異変や不可解な動きが、どの組織によるものか説明されないまま蓄積される。住民は“おかしい”と感じても、どこに問えばいいのか分からない。行政は沈黙し、専門家は推測を避け、メディアは十分に踏み込まない。こうした沈黙の連鎖が、統治の空白をさらに深める。そのとき社会は、空白を埋めるために匿名化された監視者=ナックを創造するのである。
そして、この“空白”こそが最も危険だ。
暴力には必ず主体が必要だ。だが今、センカクをめぐる領域には、主体が複数存在するように見えて、実際には誰も責任を引き受けていない。国家は「監視している」とだけ言い、実際の管理実態は示さず、民間も「関与していない」と距離を置く。結果として、最も重要な領域で、暴力の主体は“曖昧な誰か”に委ねられる。
この状況が続くなら、ナックは単なる象徴では済まなくなる。社会が“実在するもの”として扱い始める可能性すらある。なぜなら不安が強く、説明がなく、責任が不明な空白が続くと、人々は“見えない者こそ真の支配者”と感じ始めるからだ。それは民主的統治の崩壊であり、市民の信頼の死である。
私たちが問うべきなのは、ナックの正体ではない。
「暴力を行使しているのは誰なのか」
「その暴力は誰により説明されているのか」
「国家はなぜその責任を明示できないのか」
この三つである。
ナックは国家不在の隙間から生まれた影にすぎない。しかし、その影を生み出したのはほかでもない、統治の主体を曖昧にし続けた私たち自身の社会である。
“見えない暴力”ではなく、“見えない責任”こそが、センカクを覆う最大の脅威なのだ。
株式会社ナック 西山美術館
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