5月25日に大人の勉強スペースである勉強カフェで、第一回目の講座を開催した事は前回のブログでお知らせしましたが、第二回目の講座は同じく勉強カフェで6月14日に行います。



前回の講座でも参加された方にはとても満足して頂いたのですが、次回はさらに満足して頂けるようなワークを準備しています。

この講座の名前は、脳の処理スピードを上げる講座というタイトルで行っているのですが、私なりに脳の処理スピードと呼んでいるのは、一定時間内に行えるタスクの数を増える事を意味しています。

そして、脳の処理スピードが上がると、仕事の生産性が向上したり、多くの事を判断するスピードも向上します。

脳の処理スピードを上げるという事は、日常生活の中ではあまり意識してトレーニングする事は無いと一般的には思われていますが、スポーツや音楽の世界では、練習を重ねれば重ねるほど技術が向上する事は多くの方が既に納得していると思います。



例えば、一流の卓球の選手がラケットでボールを打つと、時速120kmのスピードが出るそうです。160kmのスピードでピッチャーが投げる野球と比較するとゆっくりのスピードに見えるのですが、野球の場合は、ピッチャーが投げてからバッターの前にボールが来るのが0.4秒であるのに対し、卓球の場合は0.2秒でボールが飛んでくるので感覚としては野球のボールより速く感じられるそうです。

そして野球のピッチャーは基本的にストライクゾーンにボールを投げるので、バットを振る範囲も限られているのですが、卓球の場合はストライクゾーンの数倍の面積にボールが飛んでくるので、それだけ瞬時に身体を動かす必要があります。

手元に時計がある方は、1秒の感覚は直ぐに調べる事ができると思いますが、1秒の1/5の0.2秒以内に、

①ボールの飛んでくる方向を予想し、
②身体を動かし、
③相手にボールを返せるように手を構え、
④狙いを定めて、狙った方向にボールを打つ。

というような事をする必要があります。それだけでなく相手の性格や得意不得意のパターンも頭に入れた上でそのようなプレイをするので、物凄く頭も使わなければ相手に勝てないそうです。

卓球については「100メートルのダッシュをしながらチェスをするようなスポーツ」という話を聞いた事がありますが、正にそのような感覚なのでしょう。

実は私自身、小学校4年生の時は卓球クラブに入っており、部活の顧問だった小学校の先生に初歩から教えて頂いたのですが、相手とのやり取りも1秒から2秒の範囲だったと記憶しております。

数回ラリーをするとどちらかが空振りをしてボールを拾いに行くという生産性が良くない状態で卓球をしていたのが懐かしいです。

多分卓球の一流選手でも卓球を始めた頃はそんなレベルだったと思います。そんな状態でも練習に練習を重ねる事により、ボールを打つスピードも打ち返すスピードも速くなり、0.2秒以内で様々な判断をする事ができるようになった訳です。

つまり一流の選手の中で切磋琢磨する事により、秒あたりに判断する回数もさらに高まっていったのだと思います。

聴くスピードを上げるには

卓球に限らず多くのスポーツでは、瞬時に次の行動を予測し、判断する事で相手を打ち負かしたり、相手より多くの点数をとる事で、勝敗が決まります。

そして強くなればなるほど、多くの方に賞賛されて、結果として自己肯定感も上がります。

多くの人は、そのスポーツにおいて上達する事や大会などで優勝する事を目指すので、長い時間をかけて練習をするわけです。

練習する時には、「脳を鍛えている」という意識は無いと思いますが、上達する事によって、確実に脳は鍛えらえており、短い時間で多くのタスクをできるようになるわけです。

しかし聞き取りのスピードに関しては、英語などの試験の為にヒアリングの練習をする以外では、殆どする事は無いと思います。

また人によって会話のスピードには、差があるのは事実ですが、聞き取りやすいスピードは1分間当たり300語位と言われており、かなり早口の人でも400語だそうです。

そうすると、ゆっくり話す人と速く話す人の差は、2倍以内なので、速い音声を聴く機会は殆どありません。

従って、速い音声を聴くには、機械などを使って、速いスピードで聴いてみる必要があります。

若い人はあまり馴染みが無いかもしれませんが、私が子供の頃には、33回転のレコードと45回転のレコードがありました。子供の頃は友達とふざけて回転数を速くしたり遅くしたりして笑い転げていたのも良い思い出です。

ただし、音質はあまり良くなく、機械音に近かったような記憶があります。

何時頃からは憶えていませんが、カセットデッキにも倍速で再生される機能がついている物が発売されるようになり、会社で行われる会議の議事録を作成する時には、良く活用していました。

その時の使い方としては、人がしゃべっていない時は2倍速で再生し、人が話し始めたら1倍速で聴くような使い方がメインだったのですが、ある時4倍速のカセットデッキで聴くと脳の処理スピードが向上するというお話を聞いたのです。

ただし、そのお話には不思議な不思議なシンクロニシティが影響していたのです。

2023年5月26日に大人の勉強スペースである「Youtubeは3倍で聴こう。脳の処理スピードを上げるスーパーテクニック」の講座をスタートさせました。

受講者様からの評価も高く、驚きとその効果を実感して頂きました。

 

今後は、勉強カフェで記憶の技術の講座に加えて開催していきたいと思いますので、こちらをアクセスしてみてください。

 

勉強カフェ品田マルクス高志の講座

本日は、「脳の処理スピードを上げる講座」が誕生した背景について説明します。


脳力開発トレーナーとして5000人以上の方に記憶の技術を中心に伝えていましたが、実は4年ほど前からアクティブブレイン・ベーシックコースの中で「脳の処理スピードを上げる字術」も講座の中で伝えていました。

アクティブブレインというのは、小田全宏氏が開発した記憶の技術で、2日間で記憶力を飛躍的に向上させ、結果として自分の脳に対する信頼が増し、自己肯定感も向上するプログラムです。

講座の中身を簡単に説明すると下記のような内容で、脳のトレーニングが中心です。

1.記憶力を飛躍的に向上させる6つの考え方
  脳の特性を知り、自分の脳を効果的に活用する方法を学ぶ
2.イメージ連結法の習得
  大量の単語を脳に入れる基礎を作る
3.イメージ転換法の習得
  イメージするのが難しい抽象的な単語を脳に入れる
4.イメージ分解法の習得
  難関漢字や外国語の習得方法や問題解決の技法を学ぶ
5.イメージ磁石法の習得
  情報を整理して瞬時に脳に入れる
6.応用編等
  記憶の技術の応用

この脳のトレーニングの中で一番脳に対して負荷がかかるのがイメージ転換法で、この技術を身に付けると抽象的な言葉や文章やスピーチ内容を記憶するのにとても役立ちます。

その講座を終えた後に、「今、イメージ転換法で脳を沢山使ったので、午後の講座は楽になります」といつも説明していました。

そのイメージ転換法の後は、お弁当の時間だったので、脳に負荷がかかった後は、楽になる事を伝える為に高速で音声を聴く事を始めたのです。

用意する道具は私のスマホ。オーディオブックで私が購入した書籍を1倍速→2倍速→3倍速スピードをあげてお弁当を食べながら聴いて頂きました。

受講者様に感想を聴くと、2倍速まではなんとか聴けるが3倍速になると何を言っているか全く分からないとの返事でした。しかしその後、1個か2個の聞き取れる単語を拾うだけでも良いので、4倍速を聴き続けてくださいとお願いしました。

もともとお弁当を食べている時間だったので、耳だけ集中する事は受講者様の負担にはならなかったので、5分位聴いて頂きました。

当然の事ながら、4倍速だと聞き取れる単語の数は殆どないのですが、その後に3倍速に速度を戻すと先ほど聞き取れなかった単語や文章がはっきりと聞き取れるようになり、2倍速になるとかなりゆっくりになり、1倍速になると遅くてイライラするという感想を頂くようになったのです。

それからはベーシックコースの2日目のお昼は、脳の処理スピードを上げる為の講座をおまけでするようになり、多くの受講者様がアクティブブレイン・ベーシックコースの中で、「記憶の技術」と同時に「脳の処理スピードを上げる技術」を身に付けて頂くようになったのです。

次回のブログでは、脳の処理スピードを上げる技術の詳細について語っていきたいと思います。

しばらくブログから遠ざかっていました。

最後のブログは2022年10月15日で、私の考案した「ピンを使った学習法」についてでした。

本当はその後「記憶の技術」や「学習の技術」について投稿する予定だったのですが、約10日後の10月26日に妻が亡くなってしまったのでブログもストップしていました。

 



妻が亡くなった後も暫くは、喪主という立場もあり、しっかりとしていたつもりだったのですが、精神的に参ってしまい、家からもあまり出れなくなりなりました。

そんな生活だったのですが、11月末頃から再び活動を開始する事ができ、ワークショップや講演も普通にできるようになりました。

そして以前はあまりやらなかった家事も少しづつできるようにして、炊飯器でご飯を炊いたり、料理をしたり、洗濯機で洗濯したり、洗濯ものを干したり、アイロンがけをしたりしてしています。

私の個人のFacebookでは、その様子を「ひとりでできるもん」というシリーズにして投稿して自分の家事の脳力がスキルアップしていくのを楽しんでいます。

「ひとりでできるもん」というタイトルを聞いて、ピンと来る人もそうでない人もいるとおもうのですが、NHKの教育テレビで30年位まえから15年程放映されていた番組です。
この番組では、小さな子供が家事をする様子を放映していたので人気の番組でした。
その事を思い出し「ひとりでできるもん」をシリーズ化したのです。


最初の「ひとりでできるもん」は、妻が脳の手術してから19日目に投稿しました。
この時は、既に洗濯機で洗濯をしたり、干したりすることはやっていたのですが、タオルなどを上手にたたむことができなかったので、Youtubeで関連動画を探して練習したのです。

それ以来、この動画と同じ方法でタオルをたたむようになり、それ以来我が家でのタオル置き場はスッキリとするようになりました。

ひとりでできるもんタオルたたみ編

 

 





今回は、久しぶりの投稿で、妻が亡くなった事と、ひとりで家事が上手になっている事を報告しましたが、次回からは、記憶の技術や学習の技術についての投稿もしたいと思います。
 

最近、家族関係の話題が多かったので、記憶の技術や学習の技術の投稿もしようかなと思います。

 

私が講師をしているアクティブブレイン協会は、10年以上前から受講者の方にウィークリーコンパスというメルマガを発行しており、時々私も記事を書きます。

 

本日は523号のウィークリーコンパスに私の執筆した記事が掲載されたので、私の執筆分だけこちらに転載したいと思います。

 

 

【2】講師のコラム:品田マルクス高志

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
こんにちは、認定講師の品田マルクス高志です。

早速ですが、単語カードを使って試験や受験で必要な事を覚えた経験はありますか?


小さなカードの端に穴が開いていて、リングで綴じて、英単語とその意味など1問1答式に紙の両面に書いて何回も繰り返し覚えるカードです。
 

現在でも単語カードの需要はあるようで、100円ショップでも販売されているくらいです。
しかも、お風呂に浸かりながらも使える耐水性の単語カードや、中学英語の単語や文法が最初から印刷されている単語カードもあるようです。


そんな単語カードのメリットを挙げると下記のような点があります。

・教科書や参考書などから自分の記憶が曖昧な部分のみ抽出して作成する事ができる。
・1問1答式に情報を整理する事により、頭の中が整理される。
・コンパクトに収まるので場所を取らない。
・携帯に便利で、気軽に持ち出せる。
・スキマ時間に何度も復習できる。

私自身、中学生の頃から試験対策や受験等で単語カードにはかなりお世話になり、その効果は実感しています。

ただ、単語カードはとても便利なのですが、リングに綴じて繰り返す方法には問題もあります。それは…

例えば単語カードを100枚作成した場合、
・90枚カードを記憶できて、残る10枚の記憶が不完全な場合、不完全なカード1枚にたどり着くためには、確率的に10回めくって覚え直す必要がある。
・95枚のカードを記憶できている場合には、不完全なカード1枚にたどり着くために確率的に19回めくる必要がある。
・同様に98枚のカードを記憶できている場合には、49回めくってやっとたどり着く。
・99枚のカードを記憶できていて残る1枚の場合、もしかしたら99枚めくって最後の最後にたどり着くかも。

もちろん上記の数字は確率の話になりますが、学習の進捗が進めば進むほど、指でめくるだけの作業の時間(ロスタイム)が長くなってしまいます。

実は数年前に、この学習のロスタイムを無くすための「ピンを使った学習法」を考えつき、受講される方々にお伝えしています。

具体的には、垂直に立てる事ができる数センチのピンを二本用意して、記憶したカードと記憶していないカードを左右に分けて、差して行く方法です。
そしてそれを繰り返して実施していくという具合です。

・覚えたカードは右側に差し、覚えていなかったカードは数秒で記憶して左側に差す。
・全てのカードを左右に分けたら、覚えていなかった左側のカードを同じ方法で、左右に分ける。

上記の事を繰り返すと最終的には、全部右側の覚えたカードに移るので、その日はそれで終了します。

終了すると、自分がその日に不得意だった順番にカードが並ぶので、翌日、翌々日、3日のように繰り返すのです。
そうすることで、やがては最初から全てのカードが覚えているカードになります。


そしてさらに繰り返すと、思い出すスピードも早くなります。

最初は100の情報を思い出すのに20分の時間がかかっていたものが、10分になり、5分になり、3分になると、時間辺りに繰り返す事ができる回数が増えてきます。


そうすると、記憶はより確実になり、かけ算の九九のように何年経っても忘れない手続き記憶のようになるのです。

是非皆さんも試してみてください。

 



PS:
今回ご紹介した方法で国旗を覚える様子を動画にしましたので、ご覧頂けると理解しやすいと思いますのでご覧頂けたら幸いです。

ピンを使った学習法動画解説

 


品田マルクス高志
https://www.activebrain.or.jp/teachers/detail/092/

 

尚、ピンを使った学習法は、国旗を覚える国旗セットと漢字の部首を覚える漢字セットとピンを一緒に販売しています。

下記のサイトから注文できます。

 

 

懐かしいCDの発見

昨日、知り合いの方から電話があり、私と妻の仲人でとてもお世話になった方のお別れの会で使う予定のDVDを探しているとの事でした。

残念ながらお目当てのDVDは我が家には無かったのですが、DVDを探す過程で懐かしいCDの表紙を発見しました。
アラジンのCDです。

アラジンは数年前に実写化されましたが、最初のアニメの映画は1992年に公開されました。公開されて日が浅かった時期に映画館に見に行ったので妻と行ったのでは無いのですが、アラジンは妻との思い出の曲でもあり、三鷹の保育園で働いていた時の園児との思い出の曲でもあるのです。


結婚式のキャンドルサービスで

私の妻の結婚式は、今から28年前の9月10日にカトリック吉祥寺教会で行い、披露宴は吉祥寺第一ホテルで行いました。かなり前から打ち合わせをして、結婚式のウエディングドレスやお色直しのドレス(妻だけ)も吉祥寺の貸衣装屋さんで借りる事にしました。

どなたを呼ぶか、どなたにスピーチをお願いするか、BGMはどうするかなどの話し合いをして行く中でキャンドルサービスの曲の話になりました。


その時に私のイメージの中で、少し前に見たアラジンで主人公のアリとジャスミンが魔法の絨毯で世界中を旅する場面が浮かびました。(以前ブログでも書きましたが、本当に世界中を旅しました)



そして妻の友人に電子ピアノでアラジンを演奏してもらう事にしました。

そして当日の披露宴。途中退席して妻は着替え、キャンドルサービスの始まりです。
A Whole New Worldが演奏され、お互いの親戚や友人のテーブルのキャンドルに火を灯して回りました。

そして妻の高校時代の友人やダンス仲間のテーブルに行った時は、サプライズでクラッカーを慣らして頂きました。

 



そんな思い出の曲だったので、CDも買いCDが読めなくなるほど我が家では何度も聞きました。

実は引っ越しの時にかなりのCDを処分したのですが、思い出のCDだったのでジャケットだけでも残したのだと思います。


保育園勤務

過去のブログの中で、時々触れていましたが、私は4つの保育園で勤務経験があります。

私がアクティブブレインの講師になったばかりの頃は、基本的に休日だけセミナーを実施し、企業研修も少なかったので、「平日は保育園、休日はアクティブブレイン、平日の企業研修は、有給休暇を取得して実施」という事で4か月連続で休みなしで仕事をした事もありました。

また、保育園にスーツケースを持参して、勤務時間終了後にスーツにネクタイの姿に着替え、北海道の上場企業にアクティブブレインの研修に行った事もありました。

私がスーツを着ている姿を、保育園の庭で遊んでいる園児が見かけると、「品田先生はこれからお仕事なの?」と何回も言われました。保育園の仕事も私にとってはお仕事なのですが、園児から見ると父親がスーツに着替えて、出社するイメージと重なったのでそのようなセリフが出てきたのだと思います。

保育園にいる時は、園児に良く歌を歌ってあげました。ドイツ語で蛙の歌を歌ってあげたりもしたのですが、ディズニー映画の曲は、英語で歌ってあげたりしました。我が家にはアラジンの他にもディズニーのCDがあったので、娘達に何回も歌ってあげて覚えていたからです。

ドイツ語や英語の歌は、園児たちにも好評でした。そして園児の親が自宅でディズニーのDVDを見せた時に、「品田先生が歌ってくれた歌だ」と園児が話し、そのDVDを何回も見る様になったという事も聞いた事がありました。

アラジン実写化のニュースが飛び込む

そんなある日、アラジンの実写化の発表をネットか何かのニュースで知りました。確かジニーをウィル・スミスが行う事が決まっており、主演の二人はまだだったようにな気がします。(もしかしたら記憶違いかもしれません)

そしてその時に、「A Whole New Worldが主題歌として使われるに違いない」と確信しました。そしてその時に、「品田先生が歌ってくれた歌だ」と園児が親に話した話を思い出し、数年後に園児が実写版を見た時に同じように思い出してくれるかもしれないと思ったのです。

そして園児たちの思い出になるかもしれない遊びを考えたのです。

魔法の絨毯遊び

あまり突拍子の無い遊びを他の先生の前ですると注意される可能性を感じたので、その遊びは、保育園の2階のお部屋で他の先生がいない時に実施しました。

どんな遊びかと言うと、ハンカチの上に王様や女王様をイメージした人形を載せて私が英語でA Whole New Worldを歌いながらお部屋の中を旅する遊びで、園児たちは結構喜んでくれました。(こんな感じで載せました)



そしてその遊びをしない時でも、時々 A Whole New Worldは歌ってあげたのです。

映画の実写が公開された時は、私は保育園で勤務していなかったので、どれだけの園児が覚えてくれたか分からないですが・・・。

そんな妻との思い出、娘達に歌ってあげた思い出、園児たちとの思い出が凝縮された歌が A Whole New Worldなのです。こちらは実写版の映像です。

 


私は昭和41年生まれで、午(うま)年です。そして私達の世代は、丙午(ひのえうま)との世代で、出生数が前年より46万人少ない136万人です。昨年の出生数は81万人なので、4年後の丙午の年にはどれくらいの人数になるのか少し心配だったりします。
(図は平成25年の時の総務省発表のグラフで、当時47歳の私達の世代が少ない事が良く分かります)

という事で、私自身馬には縁があり、一度だけIBMの馬術部が軽井沢で行った乗馬教室にも参加した事もあります。そんな訳で今日は馬に関する話題をしたいと思います。


妻の従姉妹の結婚式のつながりで分かった不思議なご縁

長女が赤ちゃんだった時に、時々我が家に妻の親戚の大学生が遊びに来た。東京大学の学生でとても感じの良いお嬢さんで当時赤ちゃんだった長女を可愛がってくれた。

そして彼女が大学を卒業して、数年経ったら結婚式の招待状が我が家に来た。同じ東京大学の同級生と結婚する事が決まったらしい。そしてそれは私達夫婦が二人そろって行く初めての結婚披露宴だった。

披露宴の途中、新郎の友人代表のスピーチがあった。そして新郎が東京大学の馬術部出身だった事を初めて知った。そして、スピーチが終わり、歓談タイムになった時に新郎友人が集まっているテーブルに行った。何故なら、その友人達が知っていると思われる方が小学校時代の友人だったからである。

私の小学校時代の友人は、東京大学に入り、馬術部に入った事は知っていた。そしてOGとして馬術部に関わっている事も知っていた。

 

但し、彼女の連絡先やメールアドレスを知らなかったので、私が定期的に主催している小学校の同窓会の案内に連絡を取れない状態だった。


従って、もしかしたら馬術部の人なら連絡先を知っているかと思い、馬術部関係者が集まる丸テーブルに挨拶に行ったのである。私が〇〇さん知っていますか?と尋ねると、全員知っていた。何故なら僕の小学校時代の友人は、当時は東京大学馬術部の監督で、新郎自身も馬術部のコーチのような立場だったそうなのである。

従って、「彼女の連絡先を教えてほしい」と聞くと躊躇すると思われたので、スピーチをした新郎の友人に名刺を差し出して、「私に連絡をくれるように連絡して下さい」とお願いした。そして翌日小学校時代の友人からメールが来た。確かそのメールは僕がHPCという会社のご褒美旅行で、ニュージーランドに行く前後だったような気がする。

そのメールによると、妻の親戚と結婚した青年は、東大の馬術部の卒業生の中で、とても信頼できる好青年との事だった。その事を妻に伝えるととても喜んでくれた。

東大馬術部監督と品田家の繋がり
以前も投稿したと思うが、私の父親は12人兄弟の長男だった。そして父親の一番下の弟は私と4歳違いだった。そして私が結婚した時期と叔父が結婚した時期は数年しか離れていなかったので、叔父の二人の娘(私にとっての従姉妹)と私の二人の娘はほぼ年齢が重なっていた。

従って、私の娘が小さい頃は一緒に遊んだり食事に行ったりした。そんなつながりのある従姉妹だった。

そしてその従姉妹は、東京大学では無い私立大学に入学したのであるが、馬術部に入ったという事を知った。早速、私の小学校時代の友人で東大の馬術部の監督の友人に連絡すると、「馬術部がある大学は多くないので、どこかで会うかも知れない」との返事だった。

私の従姉妹の名前も同じ「品田」だったので名前も目立ち、馬術の大会で顔を合わせた時に、私の従姉妹に話しかけたらしい。そして僕の従姉妹もびっくりして、「まさか東京大学の馬術部の監督が自分に話しかけてきたので驚いた」と後日教えてくれた。

そんな感じで、馬が繋いだシンクロニシティもあるのだなと思った。

以前も投稿したが、シンクロニシティは頻繁に起こるので、馬が繋いだシンクロニシティの話はすっかり忘れていたのであるが、数日前にたまたま叔父の家に電話をしたら、従姉妹が最初に電話に出たので、その事を思い出した。

馬が繋いだご縁ではあるが、私と妻の親戚ともご縁があったという話でした。

前々回のブログで妻との新婚旅行の事を書きましたが、実は娘が生まれてからも海外はかなり足を運びました。特に1999年から2005年頃までは、仕事での成績も良く沢山給料も貰えたので、かなり海外旅行に行けました。

今、手元にパスポートが無いので、正確な日程は分からないが、確かこんな順番です。

1.グアム1997年
会社の部門の旅行で、グアムに行った時に、せっかくなので1歳位の長女も連れて行きました。子供連れは我が家だけだったので、会社の他の仲間とは別行動が多かったのですが、初めての海を楽しみました。

2.ドイツ 1999年
次女が1歳以下だったので、3人分の席で行き、次女は一番前の席の籠に入れて移動しました。基本的にはハイデルベルクの母親の家にいて、ハイデルベルクでの生活を楽しみました。

3.ドイツ 2000年
ドイツの親戚の家を母親と訪問しました。親戚の1人が来たドイツで牧場を経営しており、馬や牛や鶏などを飼っており、親戚がたずなを握った馬車に乗って近所を回ったのも良い思い出です。


4.ドイツ オーストリア2001年

妻が、ドイツの色々な場所を娘達にも見せたいとの事だったので、ハイデルベルクの滞在は少なめにして、色々な所を旅しました。
ローテンブルクでは、素敵なホテルに泊まり、正装をして食事もしました。
ミュンヘンでは、ドイツ博物館にも行きました。
ザルツブルクでは、サウンドオブミュージックの舞台になった、場所をバスで回りました。

5.インドネシア・バリ 2002年
高い業績を上げた世界中のIBMの社員が集まるイベントであるゴールデンサークルのメンバーに選んで頂きました。ゴールデンサークルは夫婦同伴で参加して良いイベントだったので、自費で子供達も連れていく事にしました。(会社の正式な行事は子供はNGです)しかし、出発直前に長女が風邪をひき、泣く泣く娘二人を義理の両親に預けて二人で行きました。

物凄くお金のかかっているイベントでもあったので、夫婦二人でかなりゴージャスな気分は味わえました。


6.ハワイ 2003年 
この時は、IBMのソフトウェア事業部の中で高い業績を上げた社員が参加できるFirst fowardというイベントがあり、今度は家族4人で行きました。実はこの時は、私と同じ部門の先輩も子供を二人連れての家族連れだったので、2家族で行動を共にしました。
空港からホテルまではリムジンが迎えに来たのでゴージャスな気分を味わいました。



7.グアム 2004年
実は、このグアムに行く2週間位前に右腕を骨折しました。従って、妻には家族4人分の大量の荷物が入ったトランクなどを持ってもらいました。グアムのホテルはPICというホテルで沢山のプールもあり、海にも行けました。

三角巾で右腕を吊った状態でプールに入ったりしていたので、物凄く目立ったのを覚えております。

ちなみに私の骨折についての記事はこちらをご覧ください。

陽転思考-38歳の時の骨折体験が人生を変えたお話

8.サイパン 2005年
前年のグアムが娘たちの評判が良かったので、今度はサイパンに行きました。
グアムの記憶と一緒になっている部分もありますが、基本的にはプールと海で遊びました。

これ以降は、会社での個人の成績があまり良く無かったのと、長女の中学受験の塾代などがかかるようになったので、海外にはしばらく行かなくなりました。

9.アメリカ 2011年
当時、妹の家族がアメリカのシカゴに住んでいたので、妹の家族がロッキー山脈などで過ごす休暇に長女だけ送りました。それなりに楽しんできたようで、妹の家族と長女が仲良くなりました。

10.ドイツ 2013年
妹の家族がシカゴからドイツのミュンヘンに引っ越ししたのと、次女にも海外の生活を経験させてたかったので、次女を行かせる事にしました。そしてその時は次女だけでなく妻も一緒に同行しました。我が家では私と長女が二人で、10日位過ごしたのも面白かったです。


妻は、英語も堪能で、結婚前から海外旅行が好きだったので、新婚旅行を含めると、10回海外に行った事になります。

我が家は車を持った事も無く、同じ自転車の32年間乗り続けたりしてモノに対する消費は少なかったように思いますが、習い事や旅行などの「コト」に対して、お金を沢山使ったのだという事をあらためて認識しました。


妻の同僚からの電話

 

前回、妻との新婚旅行などについてブログを書いたその日に我が家に1本の電話があった。

大沼さんという方で、妻が勤務していた会社の同僚である。

私は大沼さんにお目にかかった事は無いのだが、電話に出て最初の数秒でどの大沼さんか理解したのと同時に驚いた。

あまりにも偶然であり、正にシンクロニシティである。

後でその理由についても語るが、妻の職歴についても簡単に触れたいと思う。

前回のブログでも触れたが妻は英語が堪能である。中学の頃から英語が好きで一所懸命英語を勉強したそうです。大学受験の時も英語が得意で、4年生大学の立教大学にも合格したのであるが、経済的な負担をかけないように神奈川県にある外語短大に入学した。そして英語の教諭の資格も取得した。

英語が好きで海外と関りのある仕事をしたいとの事だったので、総合商社を希望し、当時の9大商社の中で、伊藤忠商事と兼松江商(現兼松)に内定をもらったそうである。本当は伊藤忠商事に行きたかったそうであるが、先に内定を貰った兼松江商を辞退すると翌年以降の外語短大への採用に影響が出ると思ったので、兼松に入社する事になった。

兼松は、1989年に創業100周年を迎えたようで、我が家にも記念誌が残っており、東京本社のゴム資材部に所属していた妻(旧姓佐伯龍子)の写真も出ていた。

 



仕事の事を全て聞いたわけでは無いが、ゴム資材部は、タイヤの輸出や輸入に関わる仕事をしていたそうで、昔、タイヤに関する書籍などを妻も自宅に持っていた。時々、中近東のお客様が夫婦同伴で来日すると、ご主人が仕事をしている時に奥様を銀座等に連れて行って、ショッピングをしたり、食事をしたりする事もしていたらしい。

またテレックスの時代からキーボード操作に慣れており、早くからIBMのパソコンを使って、ロータス123(今でいうExcelのようなソフト)のマクロ等を使って表計算ソフトの使う方法にも長けていた。

仕事もとても出来ると評判だったのであるが、結婚して数か月で長女の妊娠が分かり、出産の数か月前に退職する事になった。

退職してからも妻は、積極的にゴム資材部の同窓会の世話人も引き受けていた。
時々我が家にはゴム資材部の同窓会の出欠が書かれた往復はがきが時々来ていた。
また兼松のOBの方が吉祥寺に讃岐うどんのお店を出した時の開店祝いのパーティに家族で誘って頂いた事もあり、その時にも妻が愛されて頼りにされていたという事も実感した。


そのゴム資材部で、同僚として仕事をしていたのが、昨日我が家に電話を下さった大沼さんで、その大沼さんが実はドイツに住んでいる妹とも関係するキーパーソンだったのである。

日本・ドイツ・アメリカを繋ぐ不思議なシンクロニシティ

今回大沼さんが我が家に電話をして下さったのは、大沼さんがドイツに出張した時に私の妹とミュンヘンで会って、妹から私の妻の状況を聞いた事がきっかけだそうです。

そして日本に帰国して直ぐにお電話を下さいました。そして私が、「あの大村さんだ」と直ぐに理解できたのは、私のドイツの家族と妻が見えない糸でつながっている事が証明されたからである。

事の発端は、今から25年位前に私の妹が婚約者を連れて日本に来た事が原因だ。当時は、私の長女も1歳か2歳位で、私の祖母や私の父も元気だった。妹が婚約者を連れてくると言うので、親戚中が祖母の家に集まり、パーティーとなった。そして英語が堪能だった妻は、妹の婚約者と色々な話で盛り上がっていた。

そして、妹の婚約者は日本人に親友が1人いて、その方はワシントンDCの大学院で一緒にMBAを取得した仲間だという話もした。

その時妻が、「もしや」と思って妹の婚約者に「その方のお名前は?」と訪ねたのだ。
そして答えは「Kenichiro Ohmura」と答えた。

なんと妻と同じ部門の同僚で、会社から派遣されてワシントンDCの大学院で学んだ大沼謙一郎さんだったのである。

妻はやっぱりとうなずいて、妹の婚約者に、「大沼健一郎さんは、私の会社の同僚だった人です」と婚約者に伝えた。

妹の婚約者はびっくり。「自分の唯一の日本人の親友が自分の結婚相手のお兄さんの奥さんの同僚だったとは」という事で、驚いたのである。

そして直ぐに大沼さんの自宅に妹の婚約者が電話をして、しばらく話した後に、妻に変わった。「お久しぶり・・・。」大沼さんもとてもびっくりしたそうです。

以前のブログでも私の身の回りで起きるシンクロニシティについては、何回か触れたが、同じような事が妻と妹の事でも起きた。

今回、大沼さんがドイツに出張した事。妹に会った事。我が家に電話をくれた事。そして丁度大沼さんと妻や妹の関係をブログに書くタイミングだった事。そして電話で、大沼さんの名前を書いて良いか確認できた事。

これらはすべて繋がっている。シンクロニシティである。

エニアグラムを通じて、妻とは出会ったのだが、交際する以前から色々な勉強会に一緒に行く事が多かった。一番良く行ったのは、月曜会という毎月第一月曜に浜松町で開催されている勉強会でそこでは様々な出会いがあった。

 

月曜会は会員が講師をする勉強会で1回500円で参加できるのが魅力的だった。会の後には必ず2次会があり、それも2500円で沢山食べて沢山飲めた。月曜会では、色々な方と知り合う事ができ、講師として何回も登壇された金井省吾先生は後に私と妻の仲人もして下さった。

 

家族への報告

 

妻と交際するようになりしばらくすると、当時一緒に住んでいた祖母と祖父に会わせる事になった。そうすると1週間もしないうちに親戚中に私が龍子を連れてきた事が話題になった。

実は当初はあまり早く結婚する予定は無かったのだが、祖父の死期が近づいていた事もあったので、叔母に言われて、結婚を急ぐことになった。二人で吉祥寺の第一ホテルに行き、日程を確認すると9月10日が空いていたのでその日に決めた。

 

結婚式の日程を決めたら、カトリック吉祥寺教会に行き、結婚式と婚約式の予約をした。

 

そしてその後は、カトリックの教会で結婚式を上げる人が必ず受ける結婚講座に4回程通う事になった。場所は、四谷のイグナチオ教会の敷地内にある部屋で行われて多数のカップルが一緒に参加していた。

 

当時は、私はIBMでシステムエンジニアという職種にあり、かなり多忙を極めていたが、何とか仕事をやりくりして平日に行われる「結婚講座」に参加できたのも多くの同僚の協力があった事を今になって思い出す。


 

結婚式の会場と披露宴の会場が決まった後は、次は2次会の会場をを吉祥寺のレストランで予約した。僕の仲間では、小学校・中学校・高校・大学・会社の友人、ボーイスカウトの仲間が来てくれた。妻の友人は、高校、短大、職場の仲間が来てくれて、共通の知り合いとしてはエニアグラム関係や月曜会関係の方も来て下さった。当時の名簿が手元には無いのであるが確か160名から180名の方が来て下さったような気がする。

 

(以前の住所です)

 

新婚旅行はオーストリアドイツ

 

結婚式の翌日に新婚旅行に出かけた。航空会社はルフトハンザにして、最初はフランクフルト経由でウィーンに行った。ウィーンでの観光はシェーンブルン宮殿がとても良かった。

とても広い建物で、マリーアントワネットやモーツァルトも住んでいたそうである。

今でも時々テレビなどで見かけると当時の事を思い出す。

 

ウィーンの次は電車で私の大好きなザルツブルクに行った。ザルツブルクは映画サウンドオブミュージックの舞台になった場所である。市の中心から少し離れた家族経営のホテルに宿泊し、二泊三日を過ごした。ザルツブルクは、大学生の時の卒業旅行から数えると何回も行った街であり、後に娘達も加わって家族4人でも行った。

 

私のアクティブブレインの体験会に最近出られた方は、憶えているかもしれないが、ある一つの記憶の技術を伝える手段としてザルツブルクの事を例に出している。それだけ好きな街だからなのです。

 

 

ザルツブルクの次は、ミュンヘン。当時私の妹はミュンヘンに住んでいたので妹の家に滞在した。大きな暖炉があるリビングルームに布団を敷いて寝たのも良い思い出である。ミュンヘンでは、世界最大のビアホールであるホーフブロイハウスやドイツ博物館なども一緒に行った。

 

ミュンヘンの後は、私の生れ故郷のハイデルベルク。私の母親と二人の弟に会う事になった。実は、私と妻が交際する前に、妻がドイツ旅行でハイデルベルクに行く事も聞いていたので、龍子と龍子の友達と母親と、たままたま来ていた叔母と一緒にハイデルベルク城にも登ったようである。妻は英語が堪能で、母親とのコミュニケーションも問題無かったので、母親も気に入ったようである。そして今度は新婚の妻として、ハイデルベルクに一緒に来たのでとても喜んでくれて、楽しい日々を過ごした。

 

ハイデルベルクの後は、ケルンに行き、ケルン駅の近くにある大聖堂などにも行った。

またケルン滞在中は、ボンにも行った。理由は、ドイツ連邦講和国の初代首相のアデナウアーハウス(アデナウアーの博物館)に行きたかったからである。何故なら、アデナウアー首相は、私の祖父と交流があり、アデナウアーハウスには、アデナウアーが日本の国会で演説をしている時に、祖父が横で通訳をしている写真が飾られていると聞いていたからである。ボンの駅からタクシーで行ったのだが、既に閉館時間を過ぎていたので、結局いく事はできなかった。(飾られていると聞いていた祖父アデナウアー初代首相の写真)

 

ケルンからフランクフルトに行き、再びルフトハンザ航空で、東京に向かった。

飛行機の中のトイレから戻った妻が泣いていた。

祖父の寿命も長くない事は知っていたので、ハネムーンベービーが欲しかったからである。

ハネムーンベイビーは、授かることは出来なかったが、12月に長女がお腹にいる事が分かった。祖父のひ孫が翌年の9月に誕生する事を伝えた晩に祖父は天に召された。

 

カトリック吉祥寺教会で行われた祖父の告別式では後藤神父様が、「1人の命が終る事は新たな命の誕生につながる」というような内容の話もされた。その時、私の親戚の多くは、お腹に宿ったばかりの長女の事を想像したようで、お葬式の前後で多くの親戚と接するようになり、妻も品田家の家族の一員として溶け込むようになった。

 

出会いはエニアグラム

 

私と妻が初めて出会ったのは、1991年10月10日。今から31年前である。

私が大学生の時からお世話になっている脳力開発研究所の志賀一雅所長が主催した「マインドウィーク」というイベントでエニアグラムという人間学のワークショップに参加した事がきっかけである。


実は妻もマインドウィークに参加したきっかけは、志賀一雅所長とのご縁だそうである。

エニアグラムは、人間の性格を9タイプに分類し、それぞれのタイプ毎に生き方を提示してくれる学問であり、1990年前後に聖心女子大学の鈴木秀子先生が日本に紹介し、日本でもワークショップが始まったばかりであった。

人間について色々知る事ができる面白い学問であった事と、鈴木秀子先生が私の祖母と関係が深い方だと分かった事もあり、日本エニアグラム学会に入会し、妻も同じく入会した。

エニアグラム学会では、数か月に一度ワークショップがあり、合宿の研修もあった。

その合宿の参加メンバーの中で最年少が私で、次に若かったのが妻だったので自然に惹かれ合い、他の会員には分からないように交際をする事になった。

そして、私と妻がエニアグラムのファシリテーターになるタイミングの時パーティーで、鈴木秀子先生から30名ほどの参加者の前で私と妻が婚約した事の発表があり、皆に知られる事になった。

 


鈴木秀子先生から花束を頂きました。


そして私と妻は、エニアグラムを通じて知り合い、結婚した日本で初めてのカップルになった。

その後エニアグラムは、世間に広く知られるようになり、企業研修などでも広く使われるようになった。

時々、エニアグラムを教えている人と出会う事があるが、そんな時に日本で一番最初にエニアグラムを通じて結婚した事と私達の長女が日本初のエニアグラムベービーであることを伝えると、「へー」と言ってもらうのが嬉しかったりする。

鈴木秀子先生に抱っこしてもらった長女