「ドア」ではありません。「トビラ」です。

 「ドア」はどこに通じているか知っていて、「トビラ」は何処へ通じているかわかっていません。「トビラ」を前にするとき、人は黙します。その先に何があってどこへ通じているのか、自分がどうなるのか、わからないからです。黙する時、つまり「それは一体何か」を理解どころか認識すらできていないし、認識できていないことをも気がついていないとき、不安や恐れに囚われます。

 

 それは物質的にそこにあって目に見えるものではありません。誰かが見せてくれることはなく、己れが意識のベクトルを向けなければならないものです。「そこにあるのに見えない」、「感じているのに見えない」という様態を取ります。通過した者は、「トビラがそこにあった」というかたちで後になって気が付きます。トビラはそれだけでは存在せず、壁と一体になっています。別の言葉なら「フレーム」とも言え、同じ絵を額縁を変えて観る行為としてこの次元に現象化し、認知されています。

 

 「問いをもつこと」でトビラに接近し、こちらからのベクトルと同時に向こうからも近づいてきます。誰かに質問するような外に答えを求める問いよりも、己れの内側に入り込んでいくものです。まるで、水飴の中に薄くしっかりと硬くて反らない金属製の薄いヘラを差し込んでゆくように。そして、「全宇宙に対する畏敬」と「秩序に対する礼儀」と「己れの無知の自覚」と共に、「私にはまだわからないことがある」と静かに申し立てるように出された手のひらのような、輪郭がぼんやりとした、断言や断定と距離を置くような顔をしてトビラに向かい立つのです。

 

 問いを持ったときに初めて己れのフレームが姿を現し始め、同時にフレームの外側も現出します。それまではどちらも存在していません。己れのフレームがゲートであり、そこを通過することが必要です。フレームを通過するということはフレームのかたちが変化することを意味します。ということはすなわち、フレームにはそもそも決まった形などないということになります。しかしフレームは確かに在るのです。目には見えないし形を把握できないフレームは「問い」というキーによって形を変えていく。問いを持つまでの「私のフレーム」は姿を見せずに「何かがあった」という感触だけを残してゆく。そして今の「私のフレーム」も知ることはできない。「何かがあった」と「何かがある」の間、それが「今この瞬間」です。「私はもう死んでいる」と同時に「今生まれている」のです。私のことをわたしが把握できない。そういう存在の仕方をしているのが「ワタシ(渡し)」である。ワタシとは、なんだかよくわからないもの。ただ「渡す」だけのもの。ワタシは「痕跡しかない」のです。その機能の仕方は各人各様です。共通しているのは、この世界の「ルール(システム)」というわたしたちを取り囲むフレームだけです。

 

 トビラを通過する時には、トビラを閉じる意識がキーになります。閉じる意識を同時に存在させることが必要です。キーがなくてはなりません。鍵がかかっている時のトビラはカベなのですから。閉じる意識とは「トビラは見えなくとも在る」と知っている意識のことです。言い換えれば「私にはまだわからないことがある」という意識です。そのとき意識はあらゆる可能性に開かれています。トビラというものが存在することが分かっていても、そのサイズや材質や厚さや取手の形、鍵穴の形状、色やデザインなどが認識できていると、「構え」に入ってしまいます。つまり「過去から学び未来に策を練ろうとする」状態に縛られてしまうということです。意識が「イマこの瞬間」にない、ということになります。「構え」ているときの意識は、今の自分が知っていることの範疇にしか存在できず、そのなかでやりくりしようとしてしまいます。他の可能性をシャットアウトすることになり、それだとトビラを開くことができなくなってしまいます。己の変容可能性を潰してしまうのです。未知で満ちるときに可能性に開かれます。未知を歩んでいくと、それが己れが辿った道となります。

 

 この物質次元において、何かを成そうとするとき、ベクトルは一方向しかありません。見えない次元においてその相対のベクトルが発生するためには、「トビラとは何か?」とか「なぜこんなところにカベがあるんだ」ではなく「トビラはわたしに何を見せてくれているのか?」とか、「トビラは私にどのように機能しているのか?」と問うことです。構造なのです。その構造こそがトビラをトビラたらしめているのです。トビラそのものが存在しているのではなく、構造がトビラというものとして現象化しているのです。「穴」としてあるものは、形を変えながら存在している。つまりトビラそのものには意味はなく、トビラというものの存在位置関係とでもいうものがトビラをトビラたらしめているわけです。この「穴」は、その位置を移動しながら存在しています。「存在位置関係」とでもいうものの構造が、トビラというかたちで非物質的に現象化し人間に知覚されているのです。己がいてフレームを持っているのではなく、フレームそのものが己だったのです。肉体も内側にたくさんの様々なかたちの「穴」を有するフレームです。

 意識で敷居をつくり出し、未知という「死」の状態を作ればそれがキーとなります。

 

 「いつでも開けられる」のは「ドア」です。「トビラ」は目に見えないのです。