「無敵の人」というのがいる。
いくら理由を列挙しても「自分がこう思ったから関係ない(良いと思う)」という返しをしてしまう人で、基本、自分が思ってる事(感情面)に関しての絶対性が強い。
「思えば正しい」という方向性。
自分が思えば無条件的にいいと思ってしまうという事が、今はやりの(本来の意味とは違うが)「反知性主義」に繋がったりしている。
基本的に自分が思ったことに関して疑うシステムがないために、「無菌状態で感じた自分」がいるとすれば、ちょっとでも菌があるとすぐに反応して「菌があるからダメだ」と否定してしまう。
ところが世の中の多くは「菌がある状態」なので、そこに出てしまうと「菌だらけで世の中はおかしいことだらけだ」と非難してしまう。
丁度、世の中の菌に触れてない若年層の人たちと同じように、「菌だらけ」状態に対して無力なわけだ。
その視点から言えば「SEALDs」と野党や左側な人たちの関係性にも「無敵な人」と「若年層」の集団にもみえる。
「戦争反対」はSEALDsも安倍首相も同じなのに「戦争法案反対」というプラカードを持ってデモできる思想は、無菌でなければならないという「無菌原理主義」に見えてしまう。
SEALDsの活動は多くの人を巻き込んだのは事実だが、巻き込まれなかった人の中には、「無菌原理主義」を感じて引いてしまった人もいると思われる。
「無菌であるはずがない人間世界」をリアルに見て、SEALDsの主張がどうこうより活動の立ち位置がおかしいと感じてしまう人がいるのではないか。
思想もなく、ただただ安保法制に対して総論反対の主張は、菌を感じている人からすれば、「もうちょっと菌を感じてから考えような」と言ってしまう上から目線が出てしまう。
確かに死んでしまうような酷い菌はダメだろうが、ちょっとかぶれた程度の菌にまで大騒ぎするな、ということだろう。
それは、SEALDs側からすれば、ひとりでも死ぬ可能性がある安保法制は、大量の死者に繋がる(想像できる)から反対だとしているのだろうが、国益を損なうような事がないようにするには、犠牲者もでるリスクを考えざるを得ない。
車は便利だが、事故で死ぬ人はいるのだから、無菌で考えれば車はダメという事になるが、車の利便性を考えれば、事故で死ぬ人のリスクを考えて、いかに死なないようにするかという努力が必要になる。
いわば、安保法制はそのための努力であって、そこにはひと筋の論理がある。
これを否定するとしても、「このままでよい理由」が必要で、「9条はいい条文だと思いますよ」では済まされない。
では安倍首相側、右側はどうか。
菌の話で言えば、安保法制の正当性を主張するために、あんな菌があるこんな菌があると菌が一杯あることを提示し(中国の脅威やらシーレーン確保やら)、「菌があるのだから無菌前提は無理です」と言ってるのだが、面白いことに無菌原理主義者は「戦争をする可能性菌」に関しては敏感に反応するのに、外敵(中国菌、シーレーン遮断菌)に関しては、まったく反応がない。
つまり、アレルギー体質だというのがわかる。
これを右側は「平和ボケ」というのだが、そもそもアレルギー体質は、その人が持つ固有の状態なので、誰もが持つ拒否反応なら撲滅に動くことになるだろう。
因果関係から言えば、「平和ボケ」だからアレルギー体質になるのではなく、「思ったら正しい」的な視点から出るアレルギー体質があるから、「平和ボケ」に見えるだけだろう。
結局、アレルギー体質という特殊性の為に、それに効く特効薬やら治療法がない限り、騙し騙しやるしかない、ということになる。
この騙し騙しが安保法制であり、アレルギー体質が治るようであれば(平和ボケがなくなるようなら)、憲法改正というところになるはずだ。
要するに、安保法制反対論は、すでにアレルギー体質だと見抜かれているわけだ。
ただ、憲法学者を持ち出しての憲法違反議論やどんな菌がいるのかの議論で、何か議論した体にするのではなく、もっと基本的な提示をするべきだったのだろうが、安倍首相側も右側論客もうまく説明し切れなかった。
出だしの「シーレーン遮断菌」の話や「朝鮮半島有事菌」に対しての物言いがあまりに稚拙で突っ込み所満載なことになってしまったからだ。
最初からアレルギー体質の人前提の物言いはしないとしても、多くの人が反応しない程度の主張をするべきだった。
それは「集団的自衛権を認め行使する」ことの正当性の説明だ。
これまで何の疑問なく「集団的自衛権を行使すると戦争になる」のを菌だと思ってきた国民が、その菌を多少は感じないと無理っぽいぞ、と思わせるには、事実上、米軍に基地を貸している状態でも集団的自衛権の範疇だ、という見解を明確にするべきだった。
ベトナム戦争で多くの爆撃機が沖縄から旅立ったが、北ベトナム側からすれば、沖縄の基地は戦略拠点であり、北ベトナムに攻撃する能力と意思があれば、確実に攻撃されていただろう。
そうすればその攻撃がピンポイントで基地を攻撃するとは限らず、また基地に落ちたとしても、そこは日本の領土(米軍に貸しているだけ)だから、当然、対日戦を考えた攻撃となる。
もちろん、当時は米国の統治下であったから、実際に北ベトナムが沖縄を攻撃したとしても、日本に攻撃したことにはならない。
ただ現代において、中国が北ベトナムと同じ立ち位置になったとしたら、国力や国民性からして対日戦を前提にした沖縄攻撃を検討する可能性がある。
実際、尖閣諸島の威嚇は米軍の動きを見るためでもあるから、日本の領土に関係しないところだけで米軍を攻撃するというような武士道的発想で攻撃するわけがなく、日本もまた必然的に巻き込まれることになる。
この集団的自衛権は発動されていた可能性を前提に、今もなお沖縄に限らず、米軍基地がある以上、集団的自衛権が発動している可能性の議論するべきだったのではないかと思う。
SEALDsや野党、左側の人たちが反対している「戦争法案」は、太平洋戦争での国土攻撃、非武装の国民に対しての攻撃も前提にしていると思うが、なぜ国民まで巻き込まれたかと言えば、国民もまた戦争に加担していると敵軍が判定したからだ。
非武装が云々ではなく、戦争の為の武器製造や継戦への精神的活動も同様に破壊すべきと判断したからだ。
つまり、戦争に関係すると敵軍が判定して実力行使できたのが太平洋戦争だと言える訳だ。
ここに集団的自衛権が絡むことになる。
国民が関係するなら当然の自衛権とするが、他国が絡めば「集団的」になるというだけのことなのだ。
「集団的」にならないようにするなら、スイスのように自国で軍隊を持って自衛するしかなく、「集団的」を認めているなら、すでにそういう事態にもなっていると主張するべきだった。
この前提に立った上での安保法制なら、アレルギー体質は別にして、多くの人はもっと積極的に安保法制を支持したと思う。
むしろ、支持した上で、集団的自衛権を具体的な攻撃に変えないために敵国に最善の外交努力をするという文言を入れてもいいくらいだった。
その具体例としては「首脳会談を申し入れる」「第三国の協力を求める」などの「言わなくても当然な事」も法律の手続き論として盛り込む方法だ。
アレルギー体質の人たちがクローズアップされてしまったおかげでこういった議論がされず、むしろ中途半端になってしまったのが今の安保法制ではないかと思う。
ただ、反対論者が目立つような法律は大概このような中途半端な形になるケースが多く、すぐに改正する事になる。
安保法制もまた、10年もたたないうちに改正する必要があるのではないかと思える。
今日はどうしても言いたいことがあって、この場でスピーチさせていただきます。「戦争法案」は絶対に廃案にしなければなりません。こんな政権に日本を任せるわけには行きません。(中略)
僕は周りに政治のおかしさを訴えていきます。戦争を起こして何になりますか。誰が得をしますか。僕ら国民には犠牲しかもたらしません。
そんなに中国が戦争を仕掛けてくるというのであれば、そんなに韓国と外交がうまくいかないのであれば、アジアの玄関口に住む僕が、韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を飲み交わし、もっともっと仲良くなってやります。
僕自身が抑止力になってやります。抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります。
何とも威勢の良いスピーチの主は、福岡県の大学に通う22歳の男子学生、後藤宏基さんである。8月28日、学生団体「SEALDs」が主催する毎週金曜日恒例の安保法案反対デモに参加し、聴衆を前にマイクで高らかに訴えた。
★
ということなのだが、こういう話をスピーチで堂々と言える頭というのは正直憧れる。
ちょっと考えた程度でもそれとこれとは違うだろうという予測は立つからだ。
なぜそう言った事が出来ないのかと言うと、原世界と加工世界の混同が起こっているからだろう。
中国人や韓国人と酒を飲み交わすというのは彼の原世界での解決方法で、「自分の見える範囲での平和」はそれでなんとかなるのだろうが、彼のあずかり知らぬ「加工世界」での中国人と韓国人にまで酒を酌み交わせない。
何かの例えで言ったとしても誇大妄想的だから、同思想の人たちにだけに囲まれていると、どんどんプライベートワールドが肥大化して、上記のようなスピーチが言えてしまうのだろう。
当然、このスピーチに関しては突っ込みのコメントが殺到したようだが、こういった流れで「安保法制反対派はバカばっかり」というようなレッテルが貼られてもいい事はない。
ただでさえ、論理構築が原理主義的で排他的で、平和的な主張のはずが感情的なイメージに捉われているのに、このレベルのスピーチが出来てしまう思考は、「相手にしなくて良い」という方向にしか行かない。
あまりに低レベルすぎるからだ。
こういった判断は、多くの人がひっそりとしていて、表立って非難するようなことにはならない。
言うに足りないという判断が先走ってしまうからだ。
こういったスピーチが出るという事は、もう主張内容がワンパターンで飽きてきている証拠だろう。
これから出てくる新しい主張はどんどん劣化したものになるだろう。
同じ主張だけではもう支持が広がらないという危機感があるのだ。
思想をベースせず、アジェンダだけの集合体は、思想がないだけに論理展開にすぐ限界が来てしまう。
良い悪いは別にして、大きな目的のための手段として「安保法制反対」という位置づけにしないと、所詮権力側には勝てない。
アラブの春でもエジプトの独裁政権は倒れたが、民主的に行われた選挙で選ばれた大統領は、経済政策がうまく行かず、結局倒されてしまっている。(状況説明記事)
独裁政権を倒した民衆たちが民主主義を信じて倒したわけではなく、経済の停滞により、ルサンチマンが独裁者に対して爆発しただけだからだ。
もう判断してしまった人たちは、「ただの学生たちの騒ぎ」を野次馬的に興味を持つか、すでに興味を失って、軽減税率の話などに話題が移っているだろう。
僕は周りに政治のおかしさを訴えていきます。戦争を起こして何になりますか。誰が得をしますか。僕ら国民には犠牲しかもたらしません。
そんなに中国が戦争を仕掛けてくるというのであれば、そんなに韓国と外交がうまくいかないのであれば、アジアの玄関口に住む僕が、韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を飲み交わし、もっともっと仲良くなってやります。
僕自身が抑止力になってやります。抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります。
何とも威勢の良いスピーチの主は、福岡県の大学に通う22歳の男子学生、後藤宏基さんである。8月28日、学生団体「SEALDs」が主催する毎週金曜日恒例の安保法案反対デモに参加し、聴衆を前にマイクで高らかに訴えた。
★
ということなのだが、こういう話をスピーチで堂々と言える頭というのは正直憧れる。
ちょっと考えた程度でもそれとこれとは違うだろうという予測は立つからだ。
なぜそう言った事が出来ないのかと言うと、原世界と加工世界の混同が起こっているからだろう。
中国人や韓国人と酒を飲み交わすというのは彼の原世界での解決方法で、「自分の見える範囲での平和」はそれでなんとかなるのだろうが、彼のあずかり知らぬ「加工世界」での中国人と韓国人にまで酒を酌み交わせない。
何かの例えで言ったとしても誇大妄想的だから、同思想の人たちにだけに囲まれていると、どんどんプライベートワールドが肥大化して、上記のようなスピーチが言えてしまうのだろう。
当然、このスピーチに関しては突っ込みのコメントが殺到したようだが、こういった流れで「安保法制反対派はバカばっかり」というようなレッテルが貼られてもいい事はない。
ただでさえ、論理構築が原理主義的で排他的で、平和的な主張のはずが感情的なイメージに捉われているのに、このレベルのスピーチが出来てしまう思考は、「相手にしなくて良い」という方向にしか行かない。
あまりに低レベルすぎるからだ。
こういった判断は、多くの人がひっそりとしていて、表立って非難するようなことにはならない。
言うに足りないという判断が先走ってしまうからだ。
こういったスピーチが出るという事は、もう主張内容がワンパターンで飽きてきている証拠だろう。
これから出てくる新しい主張はどんどん劣化したものになるだろう。
同じ主張だけではもう支持が広がらないという危機感があるのだ。
思想をベースせず、アジェンダだけの集合体は、思想がないだけに論理展開にすぐ限界が来てしまう。
良い悪いは別にして、大きな目的のための手段として「安保法制反対」という位置づけにしないと、所詮権力側には勝てない。
アラブの春でもエジプトの独裁政権は倒れたが、民主的に行われた選挙で選ばれた大統領は、経済政策がうまく行かず、結局倒されてしまっている。(状況説明記事)
独裁政権を倒した民衆たちが民主主義を信じて倒したわけではなく、経済の停滞により、ルサンチマンが独裁者に対して爆発しただけだからだ。
もう判断してしまった人たちは、「ただの学生たちの騒ぎ」を野次馬的に興味を持つか、すでに興味を失って、軽減税率の話などに話題が移っているだろう。
戦争法案と、それぞれの言葉の力。の巻 - 雨宮処凛という記事の中で、「SEALDs KANSAI大澤茉美」がなぜシールズに参加するようになったのかの説明がある。
彼女を動かしたのは、アルバイト先の女の子たちだったという。妊娠したものの奨学金の返済に追われ、シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないとおなかの子どもを堕ろした子。援助交際に依存するJK。離婚で心を病んだ母親が失踪した女の子。
これらの現実から大澤茉美が導き出したのは、
彼女たちも私も、絶望を抱えながら生きている。安保法制の『あ』の字も知らなくとも、日々の命を懸命に生きている。笑ってしまうほど強かに生きている。明日の命を探すのに必死なとき、国会の議論などに興味がもてるだろうか。
だから私は、命を馬鹿にする政治が許せなかった。安保法案だけではない。高学費の問題、労働者派遣法の改正、女性が輝く(笑)政策…
(中略)彼女が生みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を生み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、『安全』を『保障』すると謳う法案に無邪気に賛成できるほど、私をとりまく世界はすでに安全ではない。
という論法だった。もちろん書き手の雨宮もこれを是としているのだろう。
雨宮は「私は物書きなので、言葉の力を信じている。そうじゃなきゃ、15年も書き続けられるはずがない。」と言っているが、言葉の力など信じる必要はない。信じるべきは「わくわくするような自分に新鮮な言葉」ではなくて、疑いのないまっすぐで素直な神の声の発見だ。
メディアだけに限らず、時には学者も周りの人の声も信じられなくなる場合だってある。
その時に信じるべきものは自分でしかない。
その時「言葉の力」などという曖昧なものではなくて、ハッキリとした明快な神の声によって理解する。
神の声は宗教的な「神」の事ではない。自分の中に入ってくる「正しい言葉」だ。
それは王道であり、人としての道義に沿っている言葉だ。
そして、「その言葉の意味だけに固執すること」なく地道な論理構成と感情の代弁として意味づけされるものだ。
「戦争反対」という言葉には力がない。
安保法制の賛成側も「戦争反対」だからだ。
こんな力のない言葉に踊らされているから「言葉の力」に頼ってしまう。
言葉には論理と感情が表現されているから、「言葉の力」という曖昧なものでは言葉をうまく使えない。
だから「戦争反対」に何の疑問も湧かない。「その言葉の意味だけに固執してしまう。」
そして、大澤のいう話は原世界と加工世界の混同だ。
目の前の中絶した女性を救えるのは、目の前にある癒しとか、生活が出来るためのカネといったものだろう。この原世界の解決と、加工世界で行われている国政で行われる政策は別の世界のものだ。
そして中絶した女性がそれでもまっとうに生きていくための保証として意味がある。これからの原世界をどう変えるかという視点だ。原世界と加工世界の繋がりはそう考えていかないと、
はやく、誰か、この日常をぶち壊してくれ、と願いながら、頭から布団をかぶり、ここではないどこかを夢想した。当たり前に届かない自分や、皆と同じようには頑張れない自分が世界で一番嫌いだった。
という自分と同じ境遇にあると思った大澤のただの「同感できる同士」の集まりにしか見えなくなってしまう。
国政である「安保法制」は、原世界とは違う論点があり、それが原世界とどう繋がって行くのかと考えたときに「徴兵制だ」「戦争だ」でしか繋げられない「言葉の力」は、どうみても貧相だ。
「安保法制に抑止力はない。だから反対」の方がわかる。抑止力を信じないなら、当然やるだけ無駄だからだ。
だが「徴兵制に繋がる法案だ」「戦争になる法案だ」では、原世界の鬱憤を安保法制にあてつけているだけに見えてしまう。
加工世界の議論なら加工世界で通じる論法で反対しないと、所詮は通じる主張にはならない。
目の前(原世界)の問題と国政(加工世界)の問題を混同した時点で論理は破綻する。
言葉に力は出ない。
こういったまやかしの言葉に酔いしれる言葉使いは多い。
文学的情緒的スタイルの言葉は、そういう人たちからすれば「言葉の力」があるように思えるのだろうが、それはステレオタイプに毒されてしまったバイアスが強くかかった言葉でしかない。
確かにバイアスのない言葉というのは難しいだろう。バイアスを外せば外すほど、言葉の意味にだけに限定されていくから、狭義の意味づけしか許されなくなる。
「戦争反対」の意味は、彼女たちからすれば「戦争する可能性があるものは全てダメ」という原理主義的発想になるし、その抜け道とも思える状態をリスクとして認識して、それでもなおかつ抑止力として生かそうとする賛成側の「戦争反対」とは意味が違うと思っているだろう。
だが、そのリスクが見えただけで「戦争法案」とレッテルを貼り、ステレオタイプに昇華していく有様は、原理主義者特有の「それ以外は一切認めない」という偏狭さになってしまう。
教典を盲目的に、言葉通りに信じて、その「言葉の力」に頼ってテロ化する集団もあるくらいだから、ゆるゆるの意識で「言葉の力」を信じていたら、いつの間にか自分に沿わないものは間違い、自分と合わないものは排除という方向になってしまう。
「安倍やめろ」の代わりを立てずに「やめろ」だけ言う学生団体の「言葉の力」を有難がる人たちは、それをどう考えているのだろうか。
彼女を動かしたのは、アルバイト先の女の子たちだったという。妊娠したものの奨学金の返済に追われ、シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないとおなかの子どもを堕ろした子。援助交際に依存するJK。離婚で心を病んだ母親が失踪した女の子。
これらの現実から大澤茉美が導き出したのは、
彼女たちも私も、絶望を抱えながら生きている。安保法制の『あ』の字も知らなくとも、日々の命を懸命に生きている。笑ってしまうほど強かに生きている。明日の命を探すのに必死なとき、国会の議論などに興味がもてるだろうか。
だから私は、命を馬鹿にする政治が許せなかった。安保法案だけではない。高学費の問題、労働者派遣法の改正、女性が輝く(笑)政策…
(中略)彼女が生みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を生み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、『安全』を『保障』すると謳う法案に無邪気に賛成できるほど、私をとりまく世界はすでに安全ではない。
という論法だった。もちろん書き手の雨宮もこれを是としているのだろう。
雨宮は「私は物書きなので、言葉の力を信じている。そうじゃなきゃ、15年も書き続けられるはずがない。」と言っているが、言葉の力など信じる必要はない。信じるべきは「わくわくするような自分に新鮮な言葉」ではなくて、疑いのないまっすぐで素直な神の声の発見だ。
メディアだけに限らず、時には学者も周りの人の声も信じられなくなる場合だってある。
その時に信じるべきものは自分でしかない。
その時「言葉の力」などという曖昧なものではなくて、ハッキリとした明快な神の声によって理解する。
神の声は宗教的な「神」の事ではない。自分の中に入ってくる「正しい言葉」だ。
それは王道であり、人としての道義に沿っている言葉だ。
そして、「その言葉の意味だけに固執すること」なく地道な論理構成と感情の代弁として意味づけされるものだ。
「戦争反対」という言葉には力がない。
安保法制の賛成側も「戦争反対」だからだ。
こんな力のない言葉に踊らされているから「言葉の力」に頼ってしまう。
言葉には論理と感情が表現されているから、「言葉の力」という曖昧なものでは言葉をうまく使えない。
だから「戦争反対」に何の疑問も湧かない。「その言葉の意味だけに固執してしまう。」
そして、大澤のいう話は原世界と加工世界の混同だ。
目の前の中絶した女性を救えるのは、目の前にある癒しとか、生活が出来るためのカネといったものだろう。この原世界の解決と、加工世界で行われている国政で行われる政策は別の世界のものだ。
そして中絶した女性がそれでもまっとうに生きていくための保証として意味がある。これからの原世界をどう変えるかという視点だ。原世界と加工世界の繋がりはそう考えていかないと、
はやく、誰か、この日常をぶち壊してくれ、と願いながら、頭から布団をかぶり、ここではないどこかを夢想した。当たり前に届かない自分や、皆と同じようには頑張れない自分が世界で一番嫌いだった。
という自分と同じ境遇にあると思った大澤のただの「同感できる同士」の集まりにしか見えなくなってしまう。
国政である「安保法制」は、原世界とは違う論点があり、それが原世界とどう繋がって行くのかと考えたときに「徴兵制だ」「戦争だ」でしか繋げられない「言葉の力」は、どうみても貧相だ。
「安保法制に抑止力はない。だから反対」の方がわかる。抑止力を信じないなら、当然やるだけ無駄だからだ。
だが「徴兵制に繋がる法案だ」「戦争になる法案だ」では、原世界の鬱憤を安保法制にあてつけているだけに見えてしまう。
加工世界の議論なら加工世界で通じる論法で反対しないと、所詮は通じる主張にはならない。
目の前(原世界)の問題と国政(加工世界)の問題を混同した時点で論理は破綻する。
言葉に力は出ない。
こういったまやかしの言葉に酔いしれる言葉使いは多い。
文学的情緒的スタイルの言葉は、そういう人たちからすれば「言葉の力」があるように思えるのだろうが、それはステレオタイプに毒されてしまったバイアスが強くかかった言葉でしかない。
確かにバイアスのない言葉というのは難しいだろう。バイアスを外せば外すほど、言葉の意味にだけに限定されていくから、狭義の意味づけしか許されなくなる。
「戦争反対」の意味は、彼女たちからすれば「戦争する可能性があるものは全てダメ」という原理主義的発想になるし、その抜け道とも思える状態をリスクとして認識して、それでもなおかつ抑止力として生かそうとする賛成側の「戦争反対」とは意味が違うと思っているだろう。
だが、そのリスクが見えただけで「戦争法案」とレッテルを貼り、ステレオタイプに昇華していく有様は、原理主義者特有の「それ以外は一切認めない」という偏狭さになってしまう。
教典を盲目的に、言葉通りに信じて、その「言葉の力」に頼ってテロ化する集団もあるくらいだから、ゆるゆるの意識で「言葉の力」を信じていたら、いつの間にか自分に沿わないものは間違い、自分と合わないものは排除という方向になってしまう。
「安倍やめろ」の代わりを立てずに「やめろ」だけ言う学生団体の「言葉の力」を有難がる人たちは、それをどう考えているのだろうか。
