「子どもとか別にいらない」

って思っていたけど、

最近は少し変わってきている。




この女の肉体に、

興味と慈しみが生まれてきたからだ。




子を宿し、産み落とすというのは、

一体どのような感じなのだろう?



そんなことができる肉体機能を

持っているなんてすごいことじゃないか!


ちょっと使ってみたいんだが…、!

と言う感じだ。





母の日にソープフラワーを贈った。



お母さんに「産んでくれてありがとう」と

LINEした。



お母さんは「生まれたことの感謝できるのは

幸せに生きてこられた証拠だね」

と言った。



ちょっと違うなと思った。



ちょっと前までは「人生って辛いだけだ。

頼んでもないのに私なんか作るなよな」

と思っていたからだ。



幸せに生きてきたのか?と疑問に思う。

でも、お母さんがそうだと思うなら

そうなので「ありがとう」とだけ返した。




こないだ1年半ぶりに会った家族。



今、産んでくれてありがとうと

心から思うのは本当で。




ちょっと前までは、



幸せになるためには、

何かのスキルを手に入れて

何者かになって

いっぱい人を助けて

お金持ちになって…と

たくさんの工程を踏むことが

必要だと思っていた。




それは今思えば、

今を幸せと呼べない人の、

不幸せでいるための努力で。




今、すぐに「私は幸せだ」と

いえば幸せなのに、

「いやいや」とか

「今が幸せなわけないでしょ」とか

自ら幸せを遠ざけている行為でしかない。




蜃気楼のように消えてしまいそうな

理想を手に入れるまで、

自分は幸せじゃないと。




めっちゃダサい。




でも、やっぱり


今を幸せと呼んじゃったら?

え、だって、今だよ?


あり得ないよね?




と思ってた。




ちょっと前のコメダ。





けれど、幸せと思ってもいいとしたら?

呼んじゃってもいいとしたら?



幸せって呼んだらどんな気分?



いやいや。



でも、1回今を幸せと呼んでみようかな?





と、ずっとこれを繰り返していく

お稽古をしてきました。




そしたら、なんだろう、

だんだん分かってきた。




今を直視する勇気がなかったこと、

価値のない自分から逃げたかったこと、

全部人のせいにして楽になりたかったことを。




それらを直視したときに、

あのとき思い通りにならなかったことや

傷つけられたと恨んだことなども、

それによるメリットを

受け取っていたと気づいた。




相手を責めていれば、

向き合わなくて済む。




自分が被害者になれば、

優しくしてもらえる。




そんなメリットを思いっきり

受け取っていたなと。





自分に絶望しました。

そして、気づけたことに感謝しました。

そして、そこからまた始めました。




それでいいんだと思います。



今を幸せと呼べない理由は、

人それぞれだけれど、

自分に問うていくことしか

溶かせないと思う。




何の価値もない自分に

何を掘り起こすことがあるかと

思っていたけれど、

そんなときは物語の世界へ旅に出ればいい。



そして、自分の琴線に触れたことから

ヒントをもらって、展開していけば、

ノートを書いているうちに

繋がってくることもあるからね。



あとは感謝ワークを淡々とラブ






人生を、今、ここから始めようラブ



幸せは、今、だ。