至らぬ凡夫の悲しい信頼と不信の中で,「ありのまま」ってなんだろう?基本的信頼感ってなんだろう? | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1.
ぼーっとしてますんで,雑感風にさくさくっと書こうかな。

文章が硬い硬いを言われ続けまして,このくらいがバランス取れていいかも。

最近ね,私,仏教の話が多いでしょう。

流行というと軽いですがね,「サンスカーラ」って言葉がブームかな。

鈴木教授,ありがとうです。

要するに,人には,「ありのまま」を見ることができない無明(根本的な無知)があって,その無明のせいで欠けた部分を補おうとしてサンスカーラってやつが発動して「ありのまま」の世界とは異なる自分勝手な「私が見た世界」を作っちゃって,その中で生きているのが人間です~って話なんですけどね。

釈迦の八正道をもじって「正しく見る」「正しく考える」「正しく語る」って言いまくりましたけど,まあ,私自身,凡夫でして。

言うは簡単なんですけど,「正しく見る」っていうのは実際のところ,とっても難しい。

正しく「ありのまま」を見れないから,一切皆苦で四苦八苦になっちゃうわけなんですね。

凡夫の私も無明と煩悩の中で生きてもがいておるわけです。

でね,「正しく見る」ことを妨げるものってなんなんだろ~なんて思いまして。

まあ,最近の私のブームで言いますと,「サンスカーラのマイナス発動」と抽象化できるんですが(笑)。

2.
ちょっと,私なりに思ったのをいくつがあげましょうかね。

①好悪の感情で物事を見ること。

②敵味方原理で物事を見ること。

③印象でぱっと判断して物事を見ること。

④猜疑心,疑いを強くして物事を見ること。

⑤信じたい気持ちで物事を見ること。

さて,①~③は,まあ,皆さん,そんなもんだろうって思われるでしょうね。

④と⑤についてちょっと思うところをば。

3.
最近,私,自分自身の経験に照らしましてね,④を実感しましたね。
そう,誤動作で自分で記事を非公開にしといて,削除された~って大騒ぎしたやつです。
あれは,もうこのブログの荒れ具合の中で私が攻撃され続けているという被害者的な意識があって,そっから猜疑心を強くしたのが大きい。

物事を冷静に,疑問を持って,いろんな可能性を想定しつつ見るということと,疑いばかりを強くしてその疑いから即断しちゃうのは全然違うってことっす。

4.
 ⑤について。

 私ね,まあ,自己認識ほど当てにならんもんはないですけどね,職業的に緊張しているときとそうじゃないときの落差がけっこう激しいかも。

 仕事してるときは,「この依頼者にとって何が利益になるか?」という視点で見る癖がついているので,極端な話,自分があまり出ないんですよ。
 必要とあらば,道化にもなりますもん。調停の場とかね,雰囲気を和ませて,依頼者が話しやすい場を作ろうと思って,わざとお馬鹿なことを言って,お調子もんの道化をふるまって,「あはははは」と依頼者と調停委員に笑ってもらったりとか。
 そういうのを計算してやったりしてます。
 なんというんだろ,「依頼者の利益のために」という行動指針がはっきりしている分,自分を離れて見ることがしやすいし,状況を俯瞰的に見ることもしやすい気がする。

 でも,ブログで記事書いたりコメントしたりしているときは,私の依頼者いませんから,私自身の関心とか意思とかで行動するんです。
 しかも,24時間緊張してられないので,ブログで記事かいたり,コメントでやりとりしているときって,素で書いてます。
 しかも,私,かなりのうっかりさん,ぼんやりさん。
 いろんなところでそう思います。
 しかも,私,人を信じたいたちでして。
 本当に,信じたいんだな~って実感します。

 これもね「ありのまま」とサンスカーラの話をするとね,「ありのまま」では,きっとこうなんでしょうね。

人は誰も凡夫,至らぬ人間で,多様で複雑です。
そうするとね,
①いろいろな人がいて,信用できる人,信用できない人がいる。
②一人の人でもね,その人自身が多様で複雑だから,信用できる場面とできない場面がある。

きっと,これが人は信用できるかどうかについての,「ありのまま」に近いんじゃないかなって感覚的に思ったんす。

ところがね,私,人を信じたいもんだから,サンスカーラがマイナス方向に発動しちゃってね,そういう「ありのまま」に対して信じる方向にぐ~っと傾いちゃう。そして,虚構の「私が見た世界」を作るんですよ。

 その「私が見た世界」ってのは,先の①②に対してギャップを生じさせて,そこから,苦しみ(サンスクリット語のドウフカ)が生じます。
 自分で勝手にその人の信用度を過剰に設定した「自分で見た世界」を作っちゃってて,そのギャップを感じたときに,ガーンとなるわけ。
 すると,不信に振れる。
 そこから猜疑心が生まれてくる。
 こんどは,別方向にサンスカーラのマイナス発動が生じちゃって,不信の目,猜疑心がどーんと強くなって,またまた「ありのまま」とかけ離れた「自分で見た世界」を作っちゃう。
 ところがね,そうすると,「ありのまま」ってのは,実際は,全くもって信用できんてもんでもないので,またまたギャップが出てくるんですね。
 それに気づくでしょ。そうすると,また苦しみ(ドウフカ)です。
 「ああ,こんな風に人を疑いの目で見るって嫌だな。よくないな。」って罪責感が出てきちゃってね,そこでまたまたサンスカーラのマイナス発動。またまた「自分で見た世界」を速攻で構築しなおして,「人を信じたい私が見た世界」を作っちゃう。

 こういうのを,鈴木教授は,「諸行無常」とおっしゃるわけでんな。

 「諸行無常」から一切皆苦が生じるみたいな・・・・。

 ま,そういうわけで,「人を信じる」ってのは一般には美徳と言われておるんですが,これもまた,過剰になると,「ありのまま」を見ることを妨げるものになるわけです。

5.
 基本的信頼感という言葉がありましてね。
 人と人との関係をスムーズに結べるかどうかに関して,人に対する基本的信頼感があるかどうかってのはかなり大きいと言われてます。
 その基本的信頼感って具体的には,どういうことを言うのかな?

 過剰に信じてもあかん,過剰に疑ってもあかん・・・

 先ほどのね,

人は誰も凡夫,至らぬ人間で,多様で複雑です。
そうするとね,
①いろいろな人がいて,信用できる人,信用できない人がいる。
②一人の人でもね,その人自身が多様で複雑だから,信用できる場面とできない場面がある。

というのを前提にしつつ,そういう凡夫,至らぬもの同士で,なんとかおりあいつけて助け合っていきましょうやって感覚かしら。

お互いに,相手が,完全に信用できるもんでもなく,かといって全く信用できんわけでもなく,そういうもんなんだって悲しい凡夫同士なのを認め合うところから始めましょうみたいな感じ。

なんかね,やっぱ,私ネクラ。

だから,原始仏教の暗さが好みなのかもね。

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