1.
さて,リーガルマインドとはなんなの~と言われると,私もなかなか説明しずらいものがあります。
あえてそれ自体を語らず,いろいろな記事を書いていくなかで,読者の皆さまになんとなく感じ取っていただくという方法を採用することとしました。
2.
裁判官の判決を書くというお仕事は,ある紛争に対し,その事案の解決するために,事実関係を確定し,それに法律を当てはめて,そして権利義務関係の存否について判断するというものです。
そして,「法律」を当てはめる際に,法律の文言について一定の解釈を行います。
その解釈という作業は,法律そのものの一般性とその具体的適用場面での妥当性とを調整するために行われます。
そして,そのように法律の文言を解釈するということは,その法律の文言の内容を具体化するという意味で,そこで法規範を呈示しているということになります。
3.
これを,原則・例外発想ということで考えてみましょう。
原則 法律の文言をそのまま通常解釈される意味において適用する。
例外
原則そのままの適用では不都合な場合,解釈で例外に関する規範を立て,その例外規範を適用する。
このように例外に対応しようとして規範を立てようとする場合,裁判例などを読んでおりますと,大ざっぱに言って,次の二つの観点からその例外規範の正当性を基礎づけているように思えます。
もちろん,これも様々な意見のあるところであり,私が紹介するのは,私がそう見ているという様々な意見の一例です。
①必要性
まさに原則の適用をそのままにしたのでは不都合であるという価値判断。
その事例においては,こうあるべきではないかという価値判断の世界。
②相当性
その文言をそのように解釈しても,その法律の趣旨・目的とか,その他法律との諸関係とか,法全体の中で,恣意的な解釈にはなっていない。さらに進むと,こういう場面では,そのように解釈することが法の趣旨に叶う。
これは,その解釈が,法の予定する解釈の枠内に収まっているのかどうかをチェックするものとして働く。
4.
さて,この世の中の出来事は,多種多様です。
多種多様なこの世の出来事をそれなりに整理して「正しく見る」ということを考えた場合,私は,「分類」ということを考えます。
もちろん,「分類」の中に一定の抽象化があり,そこですでにありのままの多様性は失われてしまいます。
しかし,ありのままの多様性を語る言葉は存在しないと思います。
なぜなら,言葉で語るということ自体が,その言葉を選択した視点なりその言葉の抽象性なりによって,ありのままの多様性から離れてしまうからです。
では,可能な限り「分類」を細かくすればよいのか?
「分類」を細かくしていくと,それはきめ細かい精緻な判断枠組にはなっていきます。
他方で,必要以上に「分類」が細かいと,その問題を考える上で使い勝手の悪い判断枠組になってしまうこともあります。
そのようなことを考えますと,何を考えようとしているかという視点から,適度な「分類」を調整していきましょうかという発想になってきます。
必要もないのにやたら「分類」を細かくするのは,衒学的というものです。
5.
ものごとを「原則・例外」で切り分けていくというのは,「分類」のもっとも単純なものの一つと言えるでしょう。
二分ですから。
そして「原則・例外」二分法は,単純二分ではなくて,他方が原則,他方が例外という序列をもった点に特徴があります。
裁判官が法律を解釈する際に,原則・例外の発想で考えているとしたら,裁判というものの性質からして,そうなるのだろうなぁと思います。
余計なことをあれこれ言う必要がない,言うべきでないという自制が働いていると思います。
目の前のその事案に対し,原則を適用して解決できるなら,原則を適用して解決すればいい。
目の前のその事案に対し,原則適用が困難だから,その目の前の事案解決を図るための例外を考える。
そして,目の前の事案解決に不要なことは判決に書かない。それは余計なことだから。
このように考えていきますと,裁判官が法律の文言を解釈する判断枠組が,事細かな「分類」枠組によるものではなくて,「原則・例外」の枠組で考えていくことの必要性・相当性がそれなりに理解できるように思います。
6.
「原則・例外」の判断枠組であれ,「分類」の判断枠組であれ,その対極にある判断枠組はなんでしょうか?
それは,「多様な現実に対する断定」の判断枠組です。
断定的判断・表現の全てが悪いわけではありません。
たとえば,「原則・例外」,「分類」の判断枠組があり,一定の限定された領域において断定的判断・表現がされる場合を考えてみましょう。
この場合,その限定された領域において,その断定が妥当するなら,その断定的判断・表現は,まさに事態を正しく語る言葉となっています。
そう断定する理由も明示されていれば,なおよいでしょうね。
読んだ人は,その理由でもって,その断定的判断が妥当かどうかを判断できますから。
ところが,「原則・例外」「分類」という判断枠組での切り分けをすることなく,多様な現実に対して,いっきに「断定的判断・表現」をしてしまうと,そのような「断定」からこぼれ落ちてしまうものが沢山でてきます。
そう断定する理由についても,もともとが「断定」できないものを断定的に判断して断定的表現で語ろうとするために,なにやらあやふやで理由になっていない理由になることが多いでしょう。
7.
私は,かつて,
「私は,『子どものために離婚しない』は間違っていると思います。」 というタイトルの記事をあげ,その後,その当初記事内容に大幅な加筆修正と,タイトル変更を行ったことがあります。
「子どものために離婚しない」という考えについて~H24.5.29タイトル変更・記事追記訂正
もともとのタイトルが断定的表現かどうかも,実は微妙な問題があります。
「私は,~~と思います。」という表現は,主語Iで自分が感じたこと,思ったこと,考えたことを語るもので,「I メッセージ」と言われるものです。
「アサーション」という言葉があります。
自己表現の方法からいろいろなことを考えていきましょうという感じのもの。
「アサーション」についても,いずれそこに焦点を当てた記事がかければと思います。
この「アサーション」の考えからすると,「I メッセージ」で語られる言葉は,通常,イメージされる「断定的表現」とは違う意味合いを帯びてきます。
そこに入り込むと脱線が長くなりますので,この記事ではこのくらいにしておきましょう。
いずれにせよ,私は,たとえそれが「I メッセージ」を用いたものであったとしても,離婚するしないの決断に思い悩む女性たちに向かって,それぞれの多様性をまるっきり考慮せず, 「私は,『子どものために離婚しない』は間違っていると思います。」 とタイトルに掲げたことの問題性を自覚しました。
それで,
「子どものために離婚しない」という考えについて~H24.5.29タイトル変更・記事追記訂正」とタイトルを変え,元記事の大幅加筆と一定の修正を行った次第です。
脱線しますが,私は,読者の方々からのコメント,メッセージでのご意見があると,あれこれ考え出します。
そして,自分が間違っていたなぁと思うときは,それを率直に認めて,記事の修正を行います。
修正の際は,可能な限り元記事を残しつつ,追記という形で行うようにしています。
また,どこをどう修正したかが可能な限り分かるようにしています。
表現ということを徹底すると,元記事自体は残すべきと私は思っています。いちど世に出したものをその後の都合で無かったことにする,改変するという姿勢は私にはありません。
過去の記事が間違っているなら,その記事自体は残しつつ,その後の記事によって過去の記事の問題点を自己批判して,現在の自分の立ち位置を表現するのが原則的なあり方だろうと考えています。
ただ,その原則を貫きますと,元記事がそのままの姿で読まれてしまいますので,元記事を読んでショックを受ける方が出てくることをそのままにしておくことになります。
それで,私は,「原則・例外」判断を活用しまして,表現についての私自身のあり方と問題のある記事がそのまま残ることの読者に与える問題の調整点として,元記事を可能な限り残しつつ,追記・修正経過の分かる修正で対応することとしています。
8.
私自身が表現において,いろいろな過ちを犯しております。
私は,自分自身が至らないものであることを率直に認めます。ただ,それをそのままにせず,過ちを自省して,改めるべきは適切な方法で改めていき,至らない自分を少しでもましなものにしていこうともがいております。
そして,至らない自分が分かって,少し分かった気になって,しかし,後になって,やはり自分はあのとき「分かった」気になっていただけで,まだまだなのだなぁと思い知らされることも多いです。そのように思い知って,再び,どうしようかとあれこれ考えを巡らせます。
これで至らないことについて開き直りをしようというものではありません。
事実として,そうだから,そう言うのです。
その上で,私はどうありたいかをぐるぐる考えて,それを形にしていきます。
さて,信仰のない私ですが,このようなことを考え出すと,親鸞の専修念仏,絶対他力,弥陀の誓願不思議といったことをあれこれ考え,凡夫が凡夫ではないものになろうとする小賢しさなのだろうか?と反転したりもします。
凡夫の小賢しさかと思いつつ,あーでもない,こーでもないとぐるぐる考えていくわけです。
9.
さて,またまた長い記事となりました。
最近,私のブームは,「正しく見る」「正しく考える」「正しく語る」でございます。
私自身にも,では,その「正しさ」とはと問われると,まさにそれを模索中としかお答えできないところがあります。
ただ,いろいろな切り口から,「正しく見る」「正しく考える」「正しく語る」ということや,それを阻害するものについて私があれこれ考えたことを記事にしていこうかなと思う今日この頃。
まずは,「原則・例外」,「分類」という判断枠組とその底にある発想法を紹介しようと思いました。
そして,そのような切り分けをすることなく,「断定」する目の歪みと「断定的表現」で語る言葉の歪みの可能性を提示してみようと思いました。
10.
モラルハラスメント的表現を考える上でも有用な視点かと思います。
あなたの多様性,それはあなたのかけがえのない個性です。
独自にして一回限りの「いま・ここ」を生きているあなた。
その「あなた」に向かって,理由らしい理由を示すこともせず,投げかけられる言葉
「あーあ,やっぱり,お前はぐずでだめな奴なんだよ。みんなそう思うぜ!」
どういう場面でそう言えるのか?
どのような理由でそう言えるのか?
「ぐずでだめ」でない別の場面や別の素晴らしさは認めないのか?
「みんな」とは何を意味しているのか?
モラルハラスメント的表現に対する抵抗力,そのモラルハラスメントが現に継続中であれ,過去のものであれ,その抵抗力の一つとして,論理でもって「正しく見る」「正しく考える」「正しく語る」は,それなりに有用なツールかなとも思います。
もちろん,「心」が感じるセンサーの重要性もまた,私は大切な「心の働き」と理解しております。
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