こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて先日のこと、二宮尊徳(金次郎)が眠る、日光市の今市報徳二宮神社にお参りしてきたので、ご紹介いたします。

尊徳は江戸時代末、飢饉などで荒廃した農村を救った農政家。
わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市でも、下館藩領をはじめ多くの村々が、尊徳の指導(報徳仕報)により救われました。
ここ今市報徳二宮神社には、その尊徳が眠る墓(栃木県指定史跡)が残されています。



栃木県指定史跡 二宮尊徳の墓1基
昭和32年8月27日指定

二宮金次郎(尊徳)(1787~1856)は江戸時代末期の農政家、思想家であり、相模国足柄上郡栢山村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、諱を尊徳と称した。
金次郎は「分度」「推譲」などの考え方により、小田原藩家老の服部家を再興をした手腕を買われ、藩主大久保忠真の命を受けて文政5年(1822)から下野国桜町領(現栃木県真岡市)の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野国で過ごした。
「報徳仕法」と呼ばれる手法を用いて桜町領を復興させたことにより、各地から教えを請われて指導し、著しい効果を挙げた。現在でも「二宮掘」と呼ばれる水路などが各地に残っている。
これらの実績により、幕府に日光神領89カ村の復興を命ぜられて日光仕法雛形を作成し、嘉永6年(1853)に病身をおして迴村するなど、日光神領復興に全精力を注いだ。
安政2年(1855)には、日光市今市の報徳役所に一家で移転したが、翌安政3年に報徳約定において70才で死去した。今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の二宮神社境内地に埋葬された。
栃木県教育委員会


こちらが尊徳の墓です↓



お世話になった尊徳のために、下館藩(下舘藩)が献納した石燈籠が今も残っています↓



尊徳が亡くなった2年後の「安政五戊午(つちのえうま)年十月」に建立されたようです↓


ちなみに、元々石灯篭は、仏像などに清らかな灯りを献じるために置かれたものとのこと。また、お墓の周辺を照らすことで邪気を払うとともに、神仏に導いていただくという意味も含まれているそうです。
果たして、尊徳翁の墓前に燈籠を献じた下館藩、下館の地は、今も尊徳翁によって導かれているのでしょうか。
みなさんも今市までお越しの際は、ぜひ尊徳翁のお墓にお参り下さい。


というわけで、今市報徳二宮神社にある尊徳の墓のご紹介でした。なお、今市報徳二宮神社のお話は、次回「掉ケ島から奉納された掛樋」に続きます。



■今市報徳二宮神社
栃木県日光市今市743
TEL:0288-21-0138
受付:午前9時〜午後4時30分
※季節により変動