前回は、二項対立の話でした。
意見に対して、賛成、反対を即座に決めるのではなく、まずは、両方検討してみよう、というものでした。
今日は、なぜある意見をきくと人は、賛成か反対に傾いてしまうのか、考えてみましょう。
そういう考え方に慣れている、といえば、それで終わりなのですが、それではおもしろくないのでもう少し考えてみましょう。
「慣れ」とはどういうことでしょうか?
ここでは「ある期間ずっと経験して身についたもの」とでもしておきましょう。
では、賛成・反対するのになれているのでしょうか?
毎日、ディベートをする人や、批評家ならともかく、一般的な人間は、意識てきに賛成・反対する機会が多いというわけではないと思います。
せいぜい、多数決とかぐらいじゃないですか?
意識的に、賛成・反対を主張する機会はそんな多くないのに、慣れることなんてあるのでしょうか?
ここは、おそらく「賛成・反対」という言葉より「良い・悪い」のほうが考えやすいかもしれません。
「良いこと→賛成、悪いこと→反対」という構造は一般的にあてはまりそうではないですか?
「良いこと→反対、悪いこと→賛成」とする場合は、少ないか、あるいはないかもしれませんね
とするならば、私たちは日常生活で「良い・悪いを判断することに慣れている」ということかもしれません
つまり、無意識に良し悪しを決めているのかもしれません
では、なぜ「良し悪し」を決めるのでしょうか、というか、なぜ「良い」と「悪い」と2分割するのでしょうか?
1でも3でも4でもなく2つ。
もし、3つにしたら、もう一つの言葉は何でしょう?
「良い」「悪い」・・・、「good」「bad」・・・
なかなか思いつかないですね
これは、「良い・悪い」でけではないです。
上下、左右、重い・軽い、速い・遅い、善・悪、長い・短い・・・
実は、2つに分割されているものは、たくさんあるのです
もっというと、例えば、僕の世代のムシキング、ポケモンは一対一の戦いでした
あ、でも、スマブラとかは4人でできますね
それでもやっぱり、2分割というのには何かありそうですね
なぜ、2分割もしくは二項対立なのでしょうか?
・・・
人間の手足は二本ずつ、目耳が2つずつ、とかが関連するのでしょうか?
それとも、鏡という物を見て、だれかが「概念も鏡にしよう」とか思ったのでしょうか?
よくわからないですね
でも、ただ1つ言えるのは、私たちは生まれたときから、この「二分割の魔法」に知らず知らずかかっているのです。
「右・左」を違う言葉で3つに分けてとかいっても無理でしょう。
どうでもいいですが、これは、認識論や記号論ともかかわってきそうですね
そう考えると、これは、他の国では違ったりするのかもしれませんね
話をもとに戻しましょう。
要するに、私たちは、伝統的に二分割するのに慣れてしまっている。
だから、良い悪いも二分割になってしまう、こう考えることができそうですね
ここで、お気づきの方もいるかもしれないが
右は左がないと存在しないのではないでしょうか
上は下がないと存在しないのではないでしょうか
そうです
上という概念なしに下という概念はないでしょう
二分割という概念は結局は相対的なものなのです。
何かと比べて、上とか下ときめるのです
例えば「財布は右にあるよ」っていわれたらどういう対応をとりますか?
①右をみる
②「何の右?」とたずねる
じゃないですか?
①の場合は、自分と比べて右、②は「何か」と比べて右にあるということです
これ実は、すべてそうです。
「チーターは速い」といえば、他の動物と比べてますし、「A君遅い!」といえば、仮想の時間と比べて遅いということです。
もちろん、何と比較しているのかをいちいち自覚している人はいないと思いますが・・・
ということは、「良い悪い」もなにかと比較しているのです。
何と比較してるかみなさん気づいていますか?
「Aは悪い」、なにより悪いのでしょう?
「Bは良くない」、なにより良くないのでしょう?
そう考えると、「賛成」は何と比べて賛成なんでしょう?
「反対」は何と比べて反対なんでしょう?
これに関して、もう一つ気づいてほしいことがあります。
それは、「右」はあるものからみれば右ですが、あるものから見れば左になるということです
では「賛成」もあるものから見れば賛成ですが、あるものから見れば反対になるのでしょうか?
って考えると、なんか賛成・反対はどうでもよくなったりしません?
良いか悪いかだって、決めることに意味あります?
これは、1つの考えです。
こういう考え方もできるね、ぐらいでとどめてくださいね