安部宗悦さんの死を悼む | 原子力発電を考える石巻市民の会 日下郁郎

原子力発電を考える石巻市民の会 日下郁郎

「原子力発電を考える石巻市民の会」(近藤武文代表)は、東北電力の女川原子力発電所が立地している宮城県石巻市で、1979年より原発問題に取り組んでいる市民団体です。

これは、日下が「反日を考える会・宮城」の季刊誌「ブチの大通り」100号(2012年9月1日)に寄稿したものです。

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阿部宗悦さんの死を悼む

日下郁郎(くさかいくお。原子力発電を考える石巻市民の会)

先月(2012年7月7日)、阿部宗悦さんが亡くなりました。86歳でした。
津波被災による家の喪失、その後転居を重ね女川第一小校庭に建てられた仮設住宅に入るまでの労苦(そのようななかでもフクシマ原発事故後各地で開かれた反原発集会に参加しつづけました)、狭い仮設住宅での慣れない暮らし、突然奥さんを亡くした心労、重ねての病・・・。昭和の時代全体と平成の時代を生き抜いてきた身とはいえ、大震災後背負ったものが余りに重すぎたのでしょう。

石巻から女川までの山沿いの道の通行が可能になったことを知り自転車で女川町を目指したのは、大震災から3日経った3月14日。鷲神(わしのかみ)の宗悦さんの家は、津波に押し流され跡形もありませんでした。鷲神ばかりか女川町の中心部である街場(まちば)全体が、見るも無残な廃墟と化していました。鉄筋コンクリートのビルがいくつもゴロリと横倒しに倒れ、津波が入り込んですっかり壊れた3階建てのビルの屋上にはひっくり返った自家用車が乗っていました。買い物中の客が何人も津波に呑まれ亡くなったという「おんまえ屋」の店員の1人は―あとで畳屋をしているそのお兄さんから聞いたことですが―数キロも離れた女川原発近くの塚浜まで流され、そこで翌朝漁船に助けあげられたということです。避難所になっている(電源三法交付金で建てられた)総合体育館に行き、入り口で避難者名簿を調べても阿部宗悦の名前はありませんでした。その場にいた知り合いの女川町議に教えられ、はじめて宗悦さん一家が無事であることを知りました。

塚浜地内にある小屋取(こやどり)浜からは女川原発がまぢかに望めます。今年3月26日、女川原発に最も近いこの浜で、たまたま宗悦さんに出会いました。これが、生前の宗悦さんに私が会った最後の時となりました。宗悦さんは、前年12月の女川町議選に脱原発を掲げて立候補し見事当選を果たした娘(一人っ子)の美紀子さんとともに、茨城県東海村村議の相沢一正さんらに、女川原発の案内をしているところでした。
この3月、心臓が弱って1週間ほど入院したといいます。前月初めには突然、奥さんの孝子さんを亡くしていました。美紀子さんによれば、廻船問屋を始めたのは二人が結婚後のことだといいます。二人は結婚後の全ての苦楽を共にし、支え合ってきたのでしょう。このときほどよわよわしい宗悦さんの姿を目にしたのは、はじめてのことでした。

そうではあっても、その3ヶ月半後の訃報は、私にとっては突然のものでした。
7月10日、女川町浦宿の照源寺で美紀子さんを喪主とした葬儀が、大勢の人々の参加を得て行われました。
1926年(大正15年)3月1日女川町竹の浦で生を受けたといいますから、昭和時代の全体と平成の23年半を生き抜いた一生でした。
女川原発建設差止訴訟弁護団の鈴木宏一弁護士が、弔辞を読みました。最後の方は、嗚咽を抑えながらの弔辞となりました。

「熾烈を極めた女川町漁協の漁業権放棄をめぐる漁協の内外における闘争」は、「東北電力の金にものをいわせた札束攻撃と、国、宮城県、女川町当局、警察権力、一体となった攻撃により、遂に1978年8月、敗北した」
「1968年の東北電力の女川原発建設計画発表以降の45年間全てが反原発闘争にささげられた生涯だった」
こんな内容の鈴木さんらしい暖かい思いのこもった弔辞に、堂内は静まり返りました。


私が宗悦さんと初めて会ったのは、この女川漁協の漁業権放棄決議の翌年、スリーマイル島原発事故の起きた1979年の夏ことでした。(ほとんどの地域が20キロ圏内に入る石巻市も女川原発の地元だと考え、私が「原子力発電を考える石巻市民の会」をつくって反原発運動に取り組み始めたのは、このあと間もなくのことです)。そのとき抱いて連れて行った赤ん坊(長男)の母親が女川原発設置反対(女川・雄勝・牡鹿)三町既成同盟会・副会長の牡鹿町前網の鈴木武雄の娘(長女)だと知って、宗悦さんはそれまで会ったことも聞いたこともない私に心を開いたようでした。

当初私が持った宗悦さんや仲間の漁民・町民たちについての印象は、交渉などで行政当局者や東北電力社員を大声を上げて罵る、なんて非礼な人たちなのだろう、というものでした(当時の女川の状況を考えれば宗悦さんや漁民たちの憤りも無理はなかったと今は思います)。その頃一緒に交渉に臨んだとき、女川の人たちと同類でないことを示すために、私は、初めと終わりに当局者などに丁寧に挨拶するのが常でした。

1984年の前半、宗悦さん一家(私の記憶では、美紀子さんの夫の故・康則さんも1979年の秋から女川に住むようになった)は運転開始を阻止しようと、町議選(宗悦さん)・町長選(康則さん)と連続して必死に選挙運動に取り組みました。
隣接する石巻市の私たちもそれに連動して、国が防災対策範囲とした原発の10キロ圏内の石巻市荻の浜地区で、1号機稼動反対・2号機増設反対の署名運動に取り組むなどしました。反対運動の強かった雄勝町大須に宗悦さんと一緒に出かけ、1号機稼動反対・2号機増設反対を訴えたのもこの年前半のことでした。

女川町や隣接市町でのこれらの活動も空しく、その年6月ついに女川1号機の運転が開始されてしまいました。この時の無念さは、今も胸に焼き付いています。

原子力発電を考える石巻市民の会は、女川の宗悦さんたちとは全く独立にできた反原発グループです。ですが、石巻市民の会の私と広瀬昌三さん(高校教師)が女川原発差止訴訟原告団(阿部宗悦団長、阿部康則事務局長)に加わってからは、康則さんが病気で亡くなる前まで、協力してさまざまな運動に取り組みました。そんななか、宗悦さんと一番意見が分かれたのは、原子力防災計画や原子力防災訓練をめぐってでした。私たちは、県や市町の原子力防災計画や防災訓練についても(その内容を充実させようと)力を入れて取り組んできましたが、宗悦さんたちはこれには批判的でした。私は、事故が起きたときにも子どもや妊産婦をはじめとした住民の被曝を少なくできるように、稼動を許した行政当局に事前に備えをさせておくべきだ、との考えでした(とはいえ、女川の初期や「最盛期」の運動については知らないことが多いだけに、これ以上私が女川の運動についてあれこれ言うのは慎みたいと思います)。
今、石巻での自分たちの運動と併せ振り返ってみて、宗悦さんは女川の仲間たち(平塚伝さん、志村孝治さん、阿部貞男さん、小松由勝さんら町民・漁民と結束し、訴訟支援連絡会議(渡会正蔵代表、事務局・清水内科外科病院)をはじめとした宮城県内外の支援も得て、よく反原発運動を貫いてきたものだ、と思わずにいられません。
今後、女川町議を継いだ美紀子さんとともに、女川原発の立地市町から引き続き声をあげつづけ、その声をつないでさらに大きく拡げ、宮城県内外の多くの人々と共に、女川原発の運転再開を止め女川原発を廃炉に追い込みたいものだ、と思っているところです(2012年8月記)。