まるで線香花火のようだ | 思考の散歩道

思考の散歩道

毎日いろいろなことを考えています。そんな思考の散歩で感じたことを書いていきます。

父が亡くなって今日で一年になる。母が亡くなってから五年間私は父と向かい合って過ごすことができた。


西田文郎さんが先日「一人前になるとは、親に心から感謝できる人になること」と言われていました。そういった意味では比較的早い時期に私は一人前になっていたのだなと思いました。また妹にも心から感謝をしています。


親兄弟は他人という人もいますが強い縁によって結ばれています。私が関わっている非行少年の更生施設でもひどい親兄弟に囲まれて育ち非行に走る少年がとても多いですが。更生して卒業していく時にはみな親兄弟に感謝をするようになっていきます。


多くの社長が親に感謝できない人は採用しないといいますが判るような気がしますね。


今日はまずこの言葉から。


「欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである」(ブッダ)

何でもあることにしっかりと向き合うと様々な困難が起こります。そこで自分の考えとか価値観とかで火花を散らしてぶつかってその中で角が取れて磨かれていく。もちろん挫折も痛みもあります。当たり前ですが嫌なことだらけです。


そんな中で「嫌」が無くなったり自分の感情をコントロールする術を身につけていく。


先日線香花火を見ていて、まるでひとつの課題をクリアする過程みたいだなと思いました。


最初に小さな火花が出てその火花はどんどん大きくなる。やがて火花は小さくなっていくが最後にほんの一瞬パッと大きな火花が出てポトリと火玉が落ちて静かになる。


病気との闘いも、最近終わったある価値観とのぶつかり合いも正面から逃げずに向き合うことで大きな火花を散らしその中で傷つき痛みを感じました。そして角が取れていく。

不思議なのは、乗り越えたかなと思ったときに最後の火花というか衝動がやってきてそれが終わるとその問題は解決し満たされて外の喧騒とは関係なく「全く静かになる」


人生はこれの繰り返し、だから自分の嫌とは向き合わなくてはならない。そうでないといつまでも心がガチャガチャと音をたて気分の浮き沈みが激しく周りの人を振り回すことになります。


ものすごく行動的で多くの人と関わりながらも「全く静かである」そんな自分になりたいです。