今日は久しぶりに長文を書きたいと思う。
まとまらない文章になるかもしれないがそこのところはすみません。
今日の夜、ニュースで自宅で最後は看取られたいという人のトピックをやってた。
お母さんは国がなるべくお金をかけないために自宅で最後を看取るのを進めてるのではと言った。
確かにそれも一理ある。
他にも自宅では介護が大変で無理なのではとか意見が出た。
うん。これも言えてると思う。
人間は何がなんでも生きなければならないみたいなことを言った。
ここで意見が分かれた。
私は個人で生きたいと思っている人は生き抜いた方がいいと思っている。
これは当たり前だが。
だが、個人で生きたくないと思っている人がいるとして周りの人に必要とされてない・もしくは何らかの理由で無理に生きていなくて良いという人しかないない場合、その人は人生を閉じても良いのではと思っている。
例えば生まれたばかりの子が呼吸器疾患を持っていたとする。
呼吸器をつけたままでしか生きられないという設定だ。
もちろん意思を聞くことはできない。
この場合は無理矢理生かして良いものか。
例えはそうとわかりながら親が生き抜いてほしいと願っているとする。
それは親の生きる希望にもなるしその子の存在意義にもなると思う。
これはやはり生きてほしいと思う。
しかしだ。
もし親が共働きとかで自分には荷が重いしお金もないのでとかという意見で生きていてほしくないという考えだったとする。
この場合はどうだろうか。
子供による意思の決定はもちろんできない。
親やその子に関わる人の意見がどうかの違いだ。
私はここでは自然に亡くならせてあげてもいいと思っている。
では、お年寄りで言えばどうだろうか。
意識がない人で生きているうちに自宅で最後を迎えたいと思っていたかどうかはわからない人で、今は医療に頼らなければ生きられない人がいるとする。
そして家族の人は自然死を望んだとする。
この場合はどうか。
最初の話しとはずれてるが、尊厳死という形で最後を看取っても良いと思われる。
では、若年、もしくは中年ではどうか。
死にたいと思っている人がいるとする。
そして周りも生きていてほしいという人がいないとする。
さて、この場合はどうか。
今の日本ではなぜか死んではいけないということになっている。
まあ、例が悪いかもしれないのもある。
それに生きていれば希望だって見つかるかもしれない。
でも医療行為による苦しまない形での尊厳死がないのはどうしてなのだろうと疑問に思う。
個人の考え、尊厳なんてどうでも良いのだろうか。
まして先が見えない人には辛い今の現代社会である。
希望なんてどうして見えようか。
なぜこんな世の中になったかというと悪いのは現代社会だ。
人、個人個人の尊厳などなく一握りのお金持ちの人だけ自分の世界が持てる社会だからだと思うからだ。
昔はそんなにお金がなくても地域地域の人たちの繋がりが強く、一人じゃない感が強かった。
今はどうだろう。
個人個人のプライパシーばかりが強くなって昔のようなリアルな人々の繋がりがなくなっている。
だから今生きているという感覚がおかしくなっていくのではないのだろうか。
今私は生活支援コーディネーターというボランティアの活動をしようとしています。
国が決めた事業で、名目的には認知症の人や自分の居場所のないかたをなるべくお金をかけたくない形でサポートする支援みたいな感じの事業です。
去年の中旬辺りから月一回位でなりたい方が集まって今はどうしていこうか模索中の段階なのです。
そして昨日、ようやく見守りのグループと居場所のグループに別れそれぞれ煮詰めていこうというところです。
私は居場所のグループに入ったのですが、居場所を作ってそこに来る人を集めるのが大変そうだと思いました。
子供からお年寄りまで気軽に集まれるような場所を作るのが目的です。
こういった活動が活発化したらこの世の中も少しは楽しくなるんじゃないかなと思うんですよ。
自殺希望者などいない社会ができればこれほど嬉しいことはないと思いつつ、今は地元で頑張ります!
まとまらない話でしたがもし最後まで読んでくださった方がいればありがとうございました。