今の若者は社員になることが難しいと言われ続けているようであるが、なぜそこまでして社員を目指したいのかが自分には不思議に思えてしまう。

「身分社会 非正規内カーストの残酷なリアル」森永卓郎 × 深田萌絵 No.93

 

ここでもなんどか書いたことがあるかと思うが、自分は大学を宅郎して受験したが見事落ちてそのままフリータ→バックパッカーとなってしまい25までフラフラとアルバイターのままであった。

 

そうして、そんな弟を心配した上の兄が

 

「そんないつまでもフラフラしていてもしょうがないから、オレが紹介したところで一度最低でも3年は働いてみろ!!」

 

と言われてしまい、断ることもできずにその兄紹介された建築系の設備の会社に就職することとなった。

 

そして、24のときにバックパッカー旅行でアジアをタイ中心に旅していた頃に初めてベトナムを訪れた際にまるで昭和のもっと前の時代にタイムスリップしたかのような街の様子が面白く、どうせならこのベトナムにこだわり続けてみようかな?ということをなんとはなしに決めた。

 

決めないとヨーロッパやアフリカや南米なども行きたくなってしまい、キリがなく世界一周をしたくなってしまうかなと。

 

そうして25歳にして初めて就職というものをし、家も出て風呂なしアパートを吉祥寺の近くの三鷹台というところに借りてそこから現場仕事場所へと通ったものであった。

 

初めて就職というものをし、社員として働き始めたものであったが、会社はすぐに辞めたくなったが現場仕事のほうは結構自分に合っていてどちらかというと自分はその監督などと呼ばれるほうの立場よりも職人側のほうだよなぁ~と自問自答していたものであった。

 

そうして、会社のほうはすぐにでも辞めたくなったが、あるときにその現場仕事でも海外方面の仕事があるということが新聞の広告などで知ってそれでどこかアジア方面、できればベトナムを目指したいな?と漠然とながらも心に描いた。

 

そうして、なんとか経験者くらいになったら転職を探そうかな?程度に思いながら日々を過ごし、そして丁度3年くらいが経とうというころに当時の転職雑誌のBeing(ビーイング)という転職雑誌を眺めていたらまさしく、海外現場を取り扱っている会社でもうすぐベトナムの現場が始まる云々という社員募集の記事を見つけてしまった。

 

そうして、これはもう行くしかない!

 

と思って面接に行くとなぜか気に入れられ、数日後かに社長から部屋の電話に いつから来られるんだね?と催促の電話が来るほどまでであった。

 

このときのことは本当にキツい思い出で目標は一応叶えどもやはりハノイよりもホーチミンのほうがずっと目標にもしていたので約2年のハノイ勤務後日本国内で1年ほど働いてその会社を辞めるためにも無理やりに目標をホーチミンに戻って1年の語学勉強を本気でやって現地採用を目指す!という目標を自分自身に与えて社長に辞表を出しに行ったものであった。

 

それでも本当にこの時期にハノイの現場体験ができてすごく苦しくていい思い出となっている。

                                   

五つ星ホテル現場の屋上からの当時の風景

            

現場は躯体が打ち終わって部屋ができるとそこに住み込む労働者たちが現れビックリしたものであった。

                                   

 当時なにが一番困ったかと言うと、まずほとんど公衆トイレがなかったのとゴミ箱が街中になかったこと。

 

この2つが一番困ることであったが、今では改善されて逆に日本に帰国するとゴミ箱が見つからず困るということとなった。

 

いい加減日本のゴミ箱問題はあのサリン事件から始まったが、そろそろ考え直そうとは思わないのであろうか?

 

日本は一度決まりができると頑なにもうそれを治そうともしないで、お決まりが延々と増えてゆき生きづらい世の中となってしまっている気がするか。

                                 

当時ほとんど車は走っておらず、バイクもまばらで自転車がメインで実にいい時代であったかなと。

                                

そうして少年のココナッツ売りやポストカード売りなどがあちこちに居たものであった。

           

現場では日本でなら重機でもないと動かせないであろうと思えるようなものでも、人がワラワラと集まってみんなで掛け声とともにかなりの重い部品なども運んでしまうので驚かされたものであった。

 

過ぎてみれば、キツイ思い出もいい思い出となるものであるか。

 

このときは確か丁度30くらいのときで、またいい年の頃に無職となってベトナムを目指そうなどとは自分で自分に笑ってしまいながら憂鬱な気持ちで実行をしたものえあった。

 

しかし、それから数年後にその社員で仲のよかった元先輩社員の人と連絡を取り合うと、

 

Shikaさんは本当いいタイミングで一番円満に会社を辞めていったんじゃないかな?あの後、あれからどんどん常務を含めてみんななんやかんやと社長と揉めて辞めていったからなぁ~

 

ということを聞いて、

 

やっぱりもうあの会社にいたら将来絶対に後悔させられるであろうから、なるべく早めにケリをつけないといかんよなぁ~

 

という想いの元に無理に目標を作って実行したものであったが、今考えてみても本当によかったなぁ~と思える。

 

どんなときでもなにかをやろうと思うときには、ものすごくエネルギーが必要で気持ち的にも会社に頼っていたほうが楽にも思えたりもするものだが、やると決めて行動してしまえば後悔しないものである。

 

そうして、結果 現地採用は見つからず、日本に帰国してきて勉強したベトナム語も忘れ去り、おまけに失恋までして帰国してきたのだが、それから日本で派遣の仕事で現場仕事へと周るようになった。

 

そして、またそれから4・5年後くらいに海外を扱っている派遣会社を訪ねると巡り巡ってまたまたハノイへの派遣となる。

 

なにか、自分でも呼ばれているような不思議な気持ちとなったものである。

 

そして、ハノイからダナンの現場へ移動する際には契約派遣会社を変えることで給料も3割くらい上げることに成功してその半年後にとうとうホーチミン勤務となる。

 

このときにも当時昔現地採用を試みて語学留学をしながら、現地採用を探してみたが挫折して帰国して本当によかったぁ~

 

と思えたものである。

 

そうしてその2・3年後くらいにも結婚することになって、この今のここの物件を見つけたが今まで貯めた貯金がほとんど無くなってやったこともない畑違いのカレーやを始めることなった際にもやはり悩んだ。

 

また貧乏生活に逆戻りだけれども、成功する確率は無論かなり低いではあろうが懸命に本気でやれば楽しくはなるであろうし、まぁ後悔はしないであろうなという経験の元にここを始めた。

 

なにごとも本気でやって楽しんでいれば後で後悔することはないものであろうということは学んでいた。

 

ボクシングジムなどでも自分はアマチュアを何戦かしかしていないが、プロになって懸命に目指したりしていた奴なんかでもあのときにやらないで早く就職を探していればなんていう輩には会ったためしがない。

 

それよりも、やりたいことをやらないで我慢して社員生活をただただひたすら通い続けて年をとって定年までいくほうがよっぽど後悔するのではなかろうか?と思えてしまう。

 

今ならちょっと日本の田舎のほうに行けば、ベトナムなんかよりも安く土地付き家付きで手に入ると聞く。

 

自分なら自給自足をしながら、ほそぼそと収入を得る手段を模索したほうが社員をつづけるよりもいいとしか思えないか。

 

日本人はとにかくなにかに 会社や政府や医者や先生と呼ばれるような人などを“頼って“、そうして“身を任せて”しまって、いい安心な人生をおくれたらいいなぁ~と“希望”しながら過ごしている人が多いような気がする。

 

まずは自分の頭でいいか悪いか、行く行かない、やるやらない を決めるようにして、戦後米国が押し売りに押し付けた食(サトウ・小麦類・油類・乳製品類)を取らないようにしてから食を正していくことから始めるべきかと思える。

 

そうして秋から始めようなどとしている、日本では7・8回目まで打っているというもの。

 

下は一部本から抜粋するが、ぜひ一読をお薦め

           ガンになった原口一博が気づいたこと

 

原口  そうでしたか。ワクチンの歴史も試行錯誤していて面白いですね。しかし、まだ何かが隠されている気配がある。

 

吉野  その通りです。また例えば、世界の色々な感染症の歴史を見ていると、ワクチンを打つと患者が減ったというグラフが出てきます。これも大体が嘘が多く、患者数がダーッと一気に減り始めている時にワクチンを接種したら患者が減ったという、そこだけを切り取っている場合がよくあります。

 

原口 単なる感染減少のトレンドに乗っただけ?

 

吉野  はい。それで、なぜ感染症の患者数が現代の社会で減ったのかということですが、これは公衆衛生の向上の結果にほかならないケースがほとんどです。下水道を整備したり上水道を整備したりすると感染者は減るのです。

 

 

原口  パリの街だって相当汚かったと聞きます。

吉野  奴隷制度をやめたことと、上下水道の整備をしたことによって、ありとあらゆる感染者が減り始める。その減り始めたところでワク〇をやり始めて、そこのグラフだけを取り出して、やれ「効いた、効いた」と宣伝しているわけです。

 

 

 

原口  僕も神谷宗幣さんから紹介されて、南出市長のところに行ってきましたが、ワク〇後遺症に悩まされてケアを受けている方がたくさんいることを伺いました。国は「超過死亡」の激増とワク〇接種の関係も認めていないですよね。

吉野  そうです。「超過死亡」の問題はわかりやすい数字だと思い、私も一番最初の時から、厚労省の発表する死亡者の数字をもとにエクセルで票を作っていたわけです。

 

 

 

吉野   「ゆうちょ」も解体させられ、外資のアフラックが入り、がん保険を作りました。がんになる食べ物を幼少期からたべさせられ、病気になれば治療費も保険料も外資に流れてしまう。この悪魔の循環に気づき、連鎖を止めるべきです。がん保険に入ってもがんは治りません。保険に入るお金があったら、原因を除去する食事をすべきです。

 

 

 

吉野   なので、空腹のときにお菓子を食べたりとか果物を食べたりすると、誰しもが高血糖状態を起こすわけですよね。ところが、ご飯をもぐもぐ食べていると唾液がたくさん出ます。その唾液が口の中にコーティングされていますので、口から盗塁が吸収されにくくなります。だから食事の最後に少量の果物を食べても、血統値への影響は非常に少ないのです。

 

以上