私は、学校で音楽を教えていたとき、  
ただ歌や技術を教えていたわけではなかったのだと思う。  

音楽室でやっていたのは、  
「共鳴」を起こすことだった。  

教えていた、というより  
整っていたのだと思う。  

何かを与えようとしなくても、  
内側が静かに整うと、  
その状態はそのまま伝わっていく。  

一人ひとりの状態が整っていくと、  
その波はクラスに広がり、  
クラスが元気になると、先生たちも明るくなる。  

先生たちが明るくなると、  
職員室の空気も変わり、  
学校全体が軽くなっていく。  

子どもたちは軽くなり、  
そのままの自分で教室へ戻っていく。  

一人の変化は、  
無理なく広がり、  
空間そのものを変えていく。  

その流れは、  
クラスへ、先生へ、学校へと  
自然に広がっていった。  

そしてその波は、  
地域との関係にも広がっていった。  

南相馬で体験したのは、  
そういう「共鳴の連鎖」だった。  

でもそのとき私は、  
「このままでは足りない」と感じていた。  

一人では間に合わない。  
もっとやらなければいけない、と。  

子どもたちのために、と思いながら、  
どこかで自分を犠牲にしていた。  

あのとき私は、  
足りないと感じていた。  

もっとやらなければ、  
もっと届けなければと。  

でもそれは、  
力で動こうとしていた状態だった。  

本当は、  
何かを足す必要はなかった。  

すでにあるものが、  
整えばいいだけだった。  

でも今は、  
少し違う見え方をしている。  

私は誰かを変える存在ではなく、  
場を整える存在だったのだと思う。  

そしてその場は、  
一人で支えるものでもなかった。  

それぞれが、  
それぞれの場所で整っていくとき、  
自然に響き合いが生まれる。  

私は何かを与える人ではなく、  
「共鳴を起こす存在」だったのだと思う。  

そして本当は、  
一人で支える必要なんてなかった。  

一人ひとりが、それぞれの場所で  
自分の波を持ち、響き合えばいい。  

今の私は、自然の中でハミングをしている。  

何かを起こそうとするのではなく、  
ただ在ることの中から、  
音が生まれている。  

その静けさは、  
どこかへ届いていく。  

無理に広げなくても、  
必要なところへ流れていく。  

あのとき感じていた足りなさも、  
今はもう、  
静かに力へと変わっている。  

整った波は、広がっていく。  

無理に広げなくても、  
必要なところに届いていく。  

あのとき感じていた「足りなさ」は、  
間違いではなかった。  

ただ、それをどう広げるかの形が、  
少し違っていただけだった。  

いまは、もう少しやさしい形で、  
同じことを続けている。