隅田公園③


墨田公園②


墨田公園

 大川に架かる吾妻橋のたもとに墨田区役所の高層建築がいやでも目にはいる。古い人なら知っているだろうが、もともと区役所は両国にあった。その大きな区役所から道路を隔てて、はす向かいに隅田公園がある。ここは徳川御三家水戸家の下屋敷小梅別邸があったところで、築山庭園が美しく池には鴨やカイツブリや川()などの水鳥が騒ぎ大川に隣接するところから、遠く東京湾から大川沿いに登ってくる鴎も多い。もともとこの辺りの大川は、業平(なりひら)の歌にもあるようにユリカモメが有名であったところでもある。鳥好きの人ならユリカモメと聞いて今日疑問を持つことだろう。実はユリカモメという鳥は、現在ではとても珍しい鳥でこの地域に棲息するか大変危うい。往昔この界隈に棲息したことは事実であろうし、コウノトリや丹頂鶴、トキなども江戸時代から明治期にかけて棲息していたのだからユリカモメがいても不思議ではない。それだけ湿地や田があり自然が残っていて多種類の鳥たちの生息をまかなう餌が豊富な環境があった。

業平といえば、墨田区内には業平や業平橋という地名がある。ちょうど向島と錦糸町に挟まれた地域で、文武天皇(701年~704年在位)の時代、現在の向島から両国辺りまで牛島と呼ばれていたと記されているが、明治期は業平から錦糸町や亀戸まで含み牛に限らず牛馬の放牧地であったのだろうと想像される。その証明を確認するため牛島神社に足を運ぶ必要がある。

余談になるが、『野菊の墓』の伊藤左千夫は、錦糸町で牛乳の改良社を経営していた。その関係で彼の墓地は、総武線錦糸町駅の隣駅亀戸の普門院(亀戸七福神に掲載)にある。

さて隅田公園であるが、江戸時代水戸家は小梅別邸と名づけていたのだから、梅の木が多かったのだろう。梅の木は、花を楽しみ()は体の万能薬のようなもので、古くから人々に深く愛されてきた。平安時代は、梅見としゃれていたといわれる。当時自然に咲く山桜や大島桜などの比較的早春の楚々とした桜に比べ、実を採るため人の手で大事に栽培された梅は、桜などに比べ高級な樹木であったし見事に咲いた。江戸期に改良種の染井吉野という桜の品種がでるまで、花見は梅がすべてであったのだろうと小梅別邸は語っている。 

当時の人は、梅の花が咲くころその花が実を作ることを想像し、実が体のために確実になることを、そこに感謝の念を持ち梅見をしていたと考えるのは私だけなのだろうか。

ところが現在、隅田公園は墨田区の管理で界隈第一等の桜の名所になってしまった。