ツアーに組み込まれた半日観光コースで、市内の主な名所は巡ったものの、
見ておきたかった場所が入ってなかったので、最終日の朝出かけることにしました。
ベトナム戦争といえば、初めて化学兵器が使われ、枯葉剤による甚大な被害を人類が体験した場所。
二度と起こしてはならないという教訓を後世に残すために作られた博物館があるのです。
戦争証跡博物館 http://vietnam.navi.com/miru/2/
朝7時半から開館しているということで、朝食後、8時半頃ホテルを出て向かいました。
ガイドさんは遠いよ~と言ったけど、ドンコイ通り、人民会堂を経れば歩いて15分ほどです。
迷わずこれました。
どーんと出迎えてくれるのが、戦車や戦闘機の数々・・・
すでに重苦しい気持ちになる・・
そして、建物の中へ。
生々しい実弾、そして重いプレート。
ベトナム戦争では、300万人のベトナム人がなくなりました(うち200万人が市民)。
200万人が負傷し、30万人が行方不明となりました。
戦争が起きたのは1970年代。日本は高度成長期であり生活水準が飛躍的に高くなった時期。
メディアも発達して、プロのカメラマンがたくさん戦地を撮影していました。
銃やナイフを突きつけられている瞬間の写真、無残な死体をぞんざいに扱う兵士・・・
ほとんどがモノクロであることに救われました。思い出してもむかむかこみ上げてきます。。
これほどまでに、戦地の様子を捉えた写真の数々、初めて目の当たりにしました。
重苦しい気分どころか、吐き気や頭痛がしてくるほどです。
オレンジ色の壁は、枯葉剤での被害の状況が克明に記録されていました。
オレンジ剤とも呼ばれていたことから、このオレンジ色はシンボルカラーだそうです。
枯葉剤のまかれた後を裸足で歩いた世代は、自らが健康を害しただけでなく、
その数年後に奇形の子供を授かることになったのです。
そんな悲惨な、今に至る実情の展示をしているところで、iPadにピースサインで記念撮影してるアジア人・・・
なんというか、吐きそうな気持ちになりました。抗議の気持ちを込めて写真掲載。
プロのカメラマンが多く戦場を訪れていたので、最後の展示室はその作品展示室になっていました。
当時、新聞や写真雑誌のトップを飾った写真はインパクトがあるのは間違いないのですが、
「作品」としてみること、この場所にあるのは、私にとってはかなり違和感がありました。
有名な日本人カメラマンも、かなりスペースを割いての展示がされてました。
沢田京一や、映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」のモデルの一ノ瀬泰造。
そして、ベトナム戦争後も現地で写真を撮り続け、平和を実現するための巡回展をしている、
石川文洋さんと中村梧郎さんの常設コーナーもあります。
爆撃から逃れる親子を撮影、ピュリッツァー賞を受賞した沢田京一。
その後数年して、撮影した親子を訪ねていた写真までありました。
(今年3月、玉木宏が彼を主人公にしたお芝居に主演、チケットをもらって見に行きました。)
一ノ瀬泰造のカメラに実弾が貫通した、その写真もありました。
これは、ドクくん27才の写真。枯葉剤の影響でシャム双生児と言われる奇形で生まれ、
日本で切り離しの手術を受けましたが、ベトくんは重い障害で寝たきりだったそうです。
ベトくんは27歳で亡くなり、四十九日で祈りを捧げるドクくんの写真です。
「ベトちゃんドクちゃん」は子供の頃テレビでみて、その姿は子供心に衝撃でした。
その後どうなったのか・・・知ることはなかったその後に胸が痛みました。
枯葉剤の影響で奇形で生まれたこどもたちは、何万人というレベルだと思います。
今もその影響は続き、戦争直後に生まれたこどもも、今生きていれば30~40代。
博物館の1階で、障害をもつ人たちが数人、ビーズ細工等を販売していました。
恥ずかしいことだけれど、そこに近づくことができませんでした。
どういう視線を送るべきなのか、まったく見当がつかない・・・どうしたらいいかわからなかった。
また、訪れることができたら・・・今度はその人たちから何か買い物ができたらいいなと思います。
展示室の別棟には、拷問などの器具や写真が展示されています。ここはもうムリ・・・。
あまりにも重い気持ちになって、ようやく出口にたどり着いたら2時間経過してました・・・。
でも、それでも、来てよかったです。目をそむけちゃいけない場所でした。
見ておきたかった場所が入ってなかったので、最終日の朝出かけることにしました。
ベトナム戦争といえば、初めて化学兵器が使われ、枯葉剤による甚大な被害を人類が体験した場所。
二度と起こしてはならないという教訓を後世に残すために作られた博物館があるのです。
戦争証跡博物館 http://vietnam.navi.com/miru/2/
朝7時半から開館しているということで、朝食後、8時半頃ホテルを出て向かいました。
ガイドさんは遠いよ~と言ったけど、ドンコイ通り、人民会堂を経れば歩いて15分ほどです。
迷わずこれました。
どーんと出迎えてくれるのが、戦車や戦闘機の数々・・・
すでに重苦しい気持ちになる・・
そして、建物の中へ。
生々しい実弾、そして重いプレート。
ベトナム戦争では、300万人のベトナム人がなくなりました(うち200万人が市民)。
200万人が負傷し、30万人が行方不明となりました。
戦争が起きたのは1970年代。日本は高度成長期であり生活水準が飛躍的に高くなった時期。
メディアも発達して、プロのカメラマンがたくさん戦地を撮影していました。
銃やナイフを突きつけられている瞬間の写真、無残な死体をぞんざいに扱う兵士・・・
ほとんどがモノクロであることに救われました。思い出してもむかむかこみ上げてきます。。
これほどまでに、戦地の様子を捉えた写真の数々、初めて目の当たりにしました。
重苦しい気分どころか、吐き気や頭痛がしてくるほどです。
オレンジ色の壁は、枯葉剤での被害の状況が克明に記録されていました。
オレンジ剤とも呼ばれていたことから、このオレンジ色はシンボルカラーだそうです。
枯葉剤のまかれた後を裸足で歩いた世代は、自らが健康を害しただけでなく、
その数年後に奇形の子供を授かることになったのです。
そんな悲惨な、今に至る実情の展示をしているところで、iPadにピースサインで記念撮影してるアジア人・・・
なんというか、吐きそうな気持ちになりました。抗議の気持ちを込めて写真掲載。
プロのカメラマンが多く戦場を訪れていたので、最後の展示室はその作品展示室になっていました。
当時、新聞や写真雑誌のトップを飾った写真はインパクトがあるのは間違いないのですが、
「作品」としてみること、この場所にあるのは、私にとってはかなり違和感がありました。
有名な日本人カメラマンも、かなりスペースを割いての展示がされてました。
沢田京一や、映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」のモデルの一ノ瀬泰造。
そして、ベトナム戦争後も現地で写真を撮り続け、平和を実現するための巡回展をしている、
石川文洋さんと中村梧郎さんの常設コーナーもあります。
爆撃から逃れる親子を撮影、ピュリッツァー賞を受賞した沢田京一。
その後数年して、撮影した親子を訪ねていた写真までありました。
(今年3月、玉木宏が彼を主人公にしたお芝居に主演、チケットをもらって見に行きました。)
一ノ瀬泰造のカメラに実弾が貫通した、その写真もありました。
これは、ドクくん27才の写真。枯葉剤の影響でシャム双生児と言われる奇形で生まれ、
日本で切り離しの手術を受けましたが、ベトくんは重い障害で寝たきりだったそうです。
ベトくんは27歳で亡くなり、四十九日で祈りを捧げるドクくんの写真です。
「ベトちゃんドクちゃん」は子供の頃テレビでみて、その姿は子供心に衝撃でした。
その後どうなったのか・・・知ることはなかったその後に胸が痛みました。
枯葉剤の影響で奇形で生まれたこどもたちは、何万人というレベルだと思います。
今もその影響は続き、戦争直後に生まれたこどもも、今生きていれば30~40代。
博物館の1階で、障害をもつ人たちが数人、ビーズ細工等を販売していました。
恥ずかしいことだけれど、そこに近づくことができませんでした。
どういう視線を送るべきなのか、まったく見当がつかない・・・どうしたらいいかわからなかった。
また、訪れることができたら・・・今度はその人たちから何か買い物ができたらいいなと思います。
展示室の別棟には、拷問などの器具や写真が展示されています。ここはもうムリ・・・。
あまりにも重い気持ちになって、ようやく出口にたどり着いたら2時間経過してました・・・。
でも、それでも、来てよかったです。目をそむけちゃいけない場所でした。