渋沢栄一の世界研究所

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渋沢栄一生誕の地深谷市から発信する渋沢栄一の世界

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伊沢蘭軒深谷を通る



森鷗外の『伊沢蘭軒』で、蘭軒が、長崎奉行に赴任する曲淵和泉守景露に随行して長崎へ赴く件がある。文化三年(一八〇六)五月のことで、安永六年(一七七七)生まれの蘭軒は、この時三十歳であった。ちなみに我が渋沢仁山は、安永七年(一七七八)の生まれであるから、両者は同時代の人となる。

蘭軒の父隆升軒信階は、寛政六年(一七九四)十月、備後福山藩主阿部正倫に召し抱えられて侍医となった。蘭軒もまた早くから医の道を志し、経学・医学・本草学などを合わせて学んだ。鷗外は「蘭軒は後に詩を善くし書を善くした」と云うが、「しかし其師承を詳にしない」とも云う。誰に教えを受けたのか分からないということだ。「只詩は管茶山に就いて正を乞うたことを知るのみである」とも云う。管茶山は江戸後期を代表する詩人として有名である。

さて、この蘭軒が随行した曲淵和泉守の一行であるが、先ずは中山道を京都に上っている。蘭軒が残した記録によれば、十九日が旅立ちで、板橋・小豆沢(あづさわ)・蕨・浦和を経て大宮泊(亀松屋弥太郎方)。二十日は、上尾・桶川・鴻の巣・吹上堤を経て熊谷泊(絹屋新平方)。二十一日は、深谷・普済寺・本荘・新町を経て、神奈川・烏川を渡り、倉野泊(林屋留八方)。すなわち我が深谷は三日目の早朝に通り過ぎてしまい、深谷について言及するところの無いのが残念ではあるが、近傍の熊谷堤を題材に、七言絶句三首を残している。その一。


無数連山映夕陽

無数(むすう)の連山(れんざん) 夕陽(せきよう)に映(えい)じ

如浪起来如黛長

浪(なみ)の起(お)こり来(き)たるが如(ごと)く 黛(まゆずみ)の長(ちょう)ずるが如(ごと)し

轎夫顧我揚筇指

轎夫(きょうふ)我(われ)を顧(かえり)みて 筇(つえ)を揚(あ)げて指(ゆび)さす

西是秩峰北日光

西(にし)は是(これ)秩峰(ちつほう) 北(きた)は日光(にっこう)と


 以後、旅は続けられ、途中途中で神社・仏閣への参詣、学問を通じた知人・友人との交流、さらに歌枕や旧跡に思いを馳せたり、詩を賦したりなど、文人としての蘭軒の面目躍如たる道中記録となっている。



(平成27年12月13日  新井慎一 記)




尾高惇忠の漢詩 富岡二首

『藍香遺稿』(昭和十四年十二月・尾高定四郎刊)より




富岡

遠望近觀呼快哉

遠望(えんぼう)近觀(きんかん)快哉(かいさい)を呼(よ)ぶ

俄然高厦現靈臺

俄然(がぜん)高厦(こうか)靈臺(れいだい)に現(あら)わる

皇猷嘉納西洋術

皇(すめらぎ)猷(はか)り嘉納(かのう)す西洋(せいよう)の術(じゅつ)

移得斬新奇器來

移(うつ)し得(え)たり斬新(ざんしん)の奇器(きき)來(きた)る



・押韻は、上平声(じょうひょうせい)十灰(じゅっかい)韻で、哉・臺・來。

・快哉(かいさい)=ここちよいと思うこと。

・俄然=にわかに。

・高厦(こうか)=高く大きな家。厦は、大きな家。

・靈臺(れいだい)=たましいのあるところ。

・嘉納(かのう)=よろこんで受け取る。

・奇器=すぐれた道具。


 

生絲海外有聲譽

生絲(きいと)海外(かいがい)に聲譽(せいよ)有(あ)り

今復製場開豁如

今(いま)復(ま)た製場(せいじょう)豁如(かつじょ)として開(ひら)く

造物従来如着意

造物(ぞうぶつ)従来(じゅうらい)着意(ちゃくい)の如(ごと)く

富岡之號遂非虛

富岡(とみおか)の號(ごう)遂(つい)に虛(きょ)に非(あら)ず



・押韻は上平声六魚(りくぎょ)韻で、譽・如・虛。

・豁如(かつじょ)=心が広いさま。

・造物(ぞうぶつ)=造物主の略で、天地万物を創造し、育て上げた神のこと。

・着意(ちゃくい)=着想。思いつき。


(平成27年7月26日  新井慎一 記)



 幕府瓦解と渋沢栄一  連載  第四回  最終




年が明けて慶応四年正月二日、幕府からの御用状で「政態変革之儀」を知らせて来る。正月二十七日、日本の新聞記事について栗本と栄一、意見を交わす(*6)。二月九日、日本の新聞記事をシーボルト(*7)が持ち込む。同日、川路太郎(*8)より山高石見守(*9)への書状、赤松大三郎(*10)より栄一への書状が届き、同じような新聞記事を知らせて来る。二月十三日、幕府よりの御用状が届き、逐一政変の次第を報じ、ここにようやく幕府瓦解が明確となったのである。



(注解)

*6 栗本と栄一、意見を交わす

 慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を願い出て、翌日許可された。パリ滞在中の栄一たちがこのことを知るのは、先ずはフランスの新聞報道によってであると思われるが、それがいつのことなのか、はっきりとは分らない。

『渋沢栄一伝記資料 第一巻』所収(六一五頁以下)の栄一による「巴里御在館日記」によれば、翌慶応四年(一八六八)正月二日、幕府からの御用状が到着し、初めてこれを知るということになっている。一

方、栄一の自伝『雨夜譚』(岩波文庫版・一三七頁以下)においては、「ところでこの歳の十月中に日本の京都において大君が政権を返上したという評判が仏国の新聞に出てから、様々の事柄が続々連載されて来るのを見たが」とあり、また栗本についても「こ人も去年政権返上の新聞が出た時にはしきりに虚説を主張されたが」とあり、栗本と栄一が議論を交わしたのは、幕府からの御用状が到着する正月二日以前に発行されたパリの新聞記事をめぐってのことと考えて良いように思われる。
栗本は虚説であると主張、これに反対して栄一は実説であることを主張した。その後追々と事実が分って来るにつれ、栗本は色を失い、栄一が実説であることを主張しながら少しも慌てないことに驚き、その理由をしきりに知りたがったのである。
 それというのも、栄一は早くから幕府の命運の尽きる日の遠くないことを予期しており、慶喜の将軍就任に際しても強く反対し、その不可なることを再三に渡り上司である原市之進に申し入れたという経緯がある。それだけに実際に慶喜が将軍に就任すると、その落胆はあまりに大きく、みずから身を辞する決意を固めるに至った。そのような折に、慶喜の指示があって、パリ万博親善使節の一員に選ばれるという僥倖に恵まれたのである。栄一の昭武一行に対する精励ぶりは精励ぶりとして、幕府に対する評価は一向に変わっていないのである。このあたりが渋沢栄一という人物が一筋縄ではいかないところなのである。


*7 シーボルト

 アレクサンダー・ゲオルク・グスターフ・フォン・シーボルト。一八四六年~一九一一年。オランダ・ライデン生まれ。父は、有名な医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。安政六年(一八五九)、父に伴われて来日。日本語に堪能で、在日英国公使館の特別通訳官を勤

めた。昭武のパリ訪問に際し、これに随行したが、英国側の利益を代表する行動が多く、向山ら外国方のフランス離反を促進することになった。


*8 川路太郎

 弘化元年(一八四四)~昭和二年(一九二七)。諱(いみな)は、温。通称は、太郎。寛堂と号した。幕臣。父は川路彰常、祖父は聖謨。慶応二年(一八六五)、横浜仏語伝習所第一期生となり、カションの指導を受けた。同年八月、歩兵頭並となり、十月、英国留学生取締として渡英した。維新後は横浜に出て貿易商を営んだが、明治四年(一八七

一)、大蔵省に出仕し、岩倉大使の欧米巡行に随行した。明治九年(一八七六)、大蔵省を退官後は、一時実業に従事したが、長く教育界にあって活躍した。栄一の帰国に際し、杉浦愛蔵らとともにこれを横浜に出迎えた者の一人である。


*9 山高石見守

 天保十三年(一八四二)~明治四十年(一九〇七)。諱(いみな)は、信離。石見守は通称。紫山と号した。幕臣。目付。昭武のパリ訪問

に際し、傅役となり、これに随行。カションとの行き違いもあり、向山の更迭と合わせて傅役を免ぜられた。明治五年(一八七二)、大蔵省に出仕。以後、諸職を経て、同二十一年(一八八八)、博物館長に任じられた。椿椿山に師事し、南画を良くした。


*10 赤松大三郎

 天保十二年(一八四一)~大正九年(一九二〇)。諱(いみな)は、則良。通称は、大三郎。幕臣。海軍中将。江川垣庵に砲術を、坪井信良に蘭学を学ぶ。蕃書調所教授方出役、海軍伝習生、築地軍艦操練方などを勤め、万延元年(一八六〇)正月、遣米使節一行に従い、咸臨丸に乗

船。文久二年(一八六二)三月、オランダ留学を命ぜられ渡欧。帰国後は、一時沼津兵学校教授方を勤めたが、明治三年(一八七〇)、兵部省に出仕。同七年(一八七四)には海軍少将兼海軍大丞、同二十年(一八八七)には男爵となり海軍中将に進み、その後佐世保鎮守府・横須賀鎮守府各司令官を歴任した。同三十年(一八九七)には貴族院議員となった。
 『渋沢栄一伝記資料 第一巻』所収(六七二頁以下)の慶応四年(一八六七)二月十日付けで栄一が赤松に宛てた書簡では、将軍の辞職を受けて、朝廷では在来の摂関伝議等総てが廃絶され、総裁議定参与という三職を立てたこと、これには尾張・越前・薩摩・土佐・安芸の各藩主が任じられたこと等を述べており、栄一自身かなり事態を正確に把握していることが良く分る。ただし、新聞報道による江戸城二の丸炎上と薩邸焼討との因果関係については真偽のほどは分らないとも述べ、日本から遠く離れた海外にいる身として唯々憂慮するのみで、何とも歯がゆいばかりだとも記し、みずからの不安についても語っている。こうした書簡を通して浮かび上がって来るのは、沈着冷静にして頭脳明晰、事務処理に長けた、優秀な官僚としての栄一の姿である。







*参考資料

・『渋沢栄一伝記資料 第一巻』(昭和三十年・渋沢栄一伝記資料刊行会)

・渋沢栄一述『雨夜譚』(一九八四年・岩波文庫)

・飯島耕一著『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』(二〇〇五年・春風社)



(平成27年6月21日  新井慎一 記)












 幕府瓦解と渋沢栄一  連載  第三回



 ところが、この外国方による借款契約の早期実現という重大な使命の遂行に際して、一つの障害が生じ、しかもそれが次第に大きくなって来たのである。パリで出迎えたフランス側の書記官メルメ・ド・カション(*4)と向山との不仲である。フランス側と交渉する上で何かと不都合が生じることとなった。

向山は途中で外国奉行・駐仏公使を免ぜられ、その後任としてカションと親しい栗本安芸守(*5)が乗り込んで来ることになった。

以下、『渋沢栄一伝記資料 第一巻』所収(五三九頁以下)の栄一による「御用日記」等により、これに関係する部分の動きを追って見たい。

栗本は、八月十三日、ベルンにて、スイス訪問中の昭武一行に面会。翌十四日の評議で、向山以下外国方の面々はすべてパリへ引き上げることとなった。昭武一行は、この後、オランダ・ベルギーを巡歴、九月十三日、パリに帰着。さらに、九月二十日、イタリアをめざして出発、各地を巡廻して、十月二十三日、パリに帰着。十一月五日、パリを発して英国に向かう。これには向山も同行している。十一月二十二日、パリに帰着。同月二十八日、向山の帰国が予定される。十二月十五日、向山の送別会が催される。十二月二十一日、向山は、パリを出立、帰国の途に就く。





(注解)

*4 メルメ・ド・カション
 生没年不詳。カションは、初め仏国海外布教協会より派遣された宣教師として中国南部で活動をしていたが、安政五年(一八五八)、日仏通商条約締結のため来日することとなったグロ全権公使の通訳官として来日した。さらに次の公使であるべルクールの江戸入りに際しても通訳官として随行した。しかしこのべルクールとは折り合いが悪かったらしく、カションはもとの宣教師にもどり、箱館において布教活動に従事した。この箱館在住時に、当時箱館に蟄居していた栗本鋤雲と知り合い、両者は意気投合、日本語とフランス語の交換教授をするなどして、互い

に親密な関係を築いた。その後、カションは日本を離れ、香港において布教活動をする中、元治元年(一八六四)、新たに駐日公使として赴任するレオン・ロッシュによって通訳官として採用され、再び来日することとなった。
 カションと栗本は、ロッシュ着任後まもなく開かれた横浜鎖港談判の席上において再会した。この時栗本は、横浜鎖港委員の一人になっていた。その後、幕府による横浜製鉄所建設・横浜仏語伝習所の開設・フランス軍事顧問団の招聘などの事業が展開されることになるが、こうした事業はこの栗本とカションの親密な関係があってこそ実現したものと言えるであろう。
 カションは、昭武とナポレオン三世の会見に通訳を勤め、さらに昭武の教育係として選任されることを期待して帰国したが、己を誇り他人を謗るその性格が嫌われて実現に至らなかったとされている。しかしながら、ナポレオン三世との会見に際し、昭武の口上をフランス語に直して通訳を勤めたのは保科俊太郎であ るが、ナポレオン三世の言葉を日本語に直して昭武側に伝えたのはカションであり、カションとしてはそれなりの面目をほどこしたものと思える。
 確かにカションと向山ら外国方の面々とが何かと意思の疎通を欠くことが多かったのは事実であるが、それ以上にフランス側に固有の事情というものがあり、これが大きく作用したのではないだろうか。すなわち、フランス側に、幕府へ荷担することの危険性への認識が高まってい

ることが一つ、もう一つは国際貿易をリードする英国の意向というものがあり、六百万ドルの借款の見返りにフランスが日本からの生糸・蚕種

貿易を独占するなどということは、国際的な力関係から言っても到底許れることではなかったのである。




*5 栗本安芸守
 文政五年(一八二二)~明治三十年(一八九七)。諱(いみな)は、鯤(こん)。通商は、瑞見、瀬兵衛。匏庵もしくは鋤雲と号した。幕府医官の喜多村槐園の三男として生まれ、のちに幕府医官の栗本家を継いだ。安政二年(一八五五)、オランダより幕府に贈られた観光丸試乗に応募したが、奥詰医師として不謹慎とされ、免職の上、蝦夷地勤務を命ぜられた。以後箱館に在住、採薬・病院建設・養蚕等に従事した。
 文久二年(一八六二)、特命をもって士籍に列し、箱館奉行組頭となり、北蝦夷地(サハリン島)を巡検、同島富内で越冬、さらに択捉・国後を巡り、文久三年(一八六三)九月、箱館に帰った。同年十月、江戸に召還され、学問所頭取、目付、軍艦奉行並、外国奉行などを歴任、従五位下安芸守に叙任された。攘夷派からねらわれ一時寄合席に入るなどのこともあった。この間、小栗上野介とともに親仏派の中心人物として活躍した。
 慶応二年(一八六五)十一月、外国奉行に再任され、翌三年(一八六六)六月には箱館奉行・勘定奉行を兼ね、幕政を支えた。同年八月、渡仏し、向山と代わって公使となり、フランスとの協調を図ったが、途中幕府が瓦解し、明治元年(一八六八)五月、帰国の途に就いた。その後は、小石川大塚に隠棲し、「郵便報知新聞」を舞台に文筆をもって盛名を馳せた。著書に『暁窓追補録』『匏庵十種』『匏庵遺稿』などがある。
 詩人の飯島耕一が、この栗本をテーマに『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』と題する小説を書いている。
 著者のあとがきによれば、この作品は、最初「海燕」の一九八九年八月号に「鯤氏の幕末」と題して発表され、同年十一月に刊行された短編集『虹橋』に収められ、これに手を入れ稿を改めたものである。
 この作品の語り手は、一九六八、九年の大学紛争の時に、大学三年で、ヘルメットをかぶって機動隊と対峙した過去を持つが、いまは大学でアナトール・フランスの短編を読んだり、フランス語の初級文法を教えたりしている人物として登場する。語り手は、なかなか癒えようとしない疲労をひきずりながら、何とはなしに鯤のことばかりを考えて暮らしているのであった。
 語り手が祖父から聞いた話では、戊辰の年大塚で米屋を営んでいた曽祖父は、店の前を上野で敗れた彰義隊の侍が何人も血まみれになりながらよろけるように中野方面へ落ち延びて行く姿を目撃しているのであった。曽祖父や祖父の墓のある大塚の善心寺には鯤の墓もあり、語り手は曽祖父や祖父の墓とともに鯤の墓にもお参りする。そして鯤と親しかった小栗上野介が斬られた上州権田村にも行き、東善寺にある小栗の墓にも詣でて来るのである。
 鯤の生涯を追うことで、語り手の鬱屈した心が次第に解きほぐれて行くかのように物語は進行して行く。
 最後の場面、語り手は、井の頭線のS駅のホームに立つ。「雲と雲の間の、遠い海の色に似た、幾層かのたゆたう影を眺めていた。光ったかと思うと翳り、また光った。」





(平成27年6月14日  新井慎一 記)











使節代表の徳川昭武に付き従うグループと、外国奉行・駐仏公使向山隼人正(*2)を頂点とする外国方のグループとである。むろん栄一は昭武に付き従うグループの一員であるが、昭武には万博関連行事への参加や各国巡歴という公的な仕事を終えた後に数年間の個人的留学が予定されており、この留学に関わる部分でのサポートが栄一本来の任務として期待されていた。また、外国方は、フランスとの友好親善を図るとともに、これ以前に幕府とフランスとの間に交わされていた六百万ドルに上る借款契約(*3)の早期実現という重大な使命を帯びてもいた。



(注解)

*2 向山隼人正

 文政九年(一八二六)~明治三十年(一八九七)。諱(いみな)は、一履。字は、欣文。通称は、栄五郎、隼人正。黄村と号した。江戸本所の生まれ。旗本一色氏より出て、向山源太夫の養子となる。昌平黌教授方出役、小十人組番士、箱館奉行支配組頭、外国奉行支配組頭、目付を歴任。慶応二年(一八六六)十月、外国奉行となり、翌年五月、駐仏公使に選ばれ、従五位下隼人正に叙任されると同時に若年寄格となる。維新後、静岡学問所頭取。廃藩後、東京に出たが、官途には就かず、詩作・骨董の世界に生きた。著書に『景蘇軒詩抄』などがある。栄一は、仏国へ赴くアルヘー号船上にて、この向山や杉浦としばしば闘詩を試み、互いの無聊を慰め合った。

後年の作であるが、いま、試みに、黄村の漢詩を一つ、二つ引いて見る。

なお、その読み下しについては、深谷市郷土文化会理事で埼玉県漢詩連盟副会長の増田泰之氏にご助言をいただいた。ここに記して感謝申し上げたい。





   彰義隊

戊辰五月此山中

戊辰(ぼしん)五月(ごがつ)此(こ)の山中(さんちゅう)

劫火焼天草木紅

劫火(ごうか)天(てん)を焼(や)き草木(そうもく)紅(あか)し

志士喪元甘一死

志士(しし)元(こうべ)を喪(うしな)ひ一死(いっし)に甘(あま)んじ

親臣酬主表孤忠

親臣(しんしん)主(しゅ)に酬(むく)いんと孤忠(こちゅう)を表(あらは)す

応知百計千方尽

応(まさ)に知(し)るべし百計(ひゃくけい)千方(せんぽう)尽(つ)くを

坐受三軍四面攻

坐(ざ)して受(う)く三軍(さんぐん)四面(しめん)の攻(せ)め
厲鬼于今猶夜哭
厲鬼(れいき)今(いま)于(に)猶(なお)夜(よる)に哭(こく)し
啾々万壑動悲風
啾々(しうしう)として万壑(ばんがく)に悲風(ひふう)の動(うご)く


栗本匏庵挽詞二首

髯兄与弟義相親

髯兄(ぜんけい)と弟(てい)義(ぎ)に相(あい)親(した)しみ

出処升沈五十春

出処(しゅっしょ)升沈(しょうちん)五十(ごじゅう)の春(はる)

曾愧為医長売薬

曾(かつ)て医(い)為(た)り売薬(ばいやく)に長(ちょう)ずるを愧(は)ぢ

遂能報国不謀身

遂(ついに)能(よ)く国(くに)に報(むく)いんとして身(み)を謀(はか)らず

晩年有子尚総角

晩年(ばんねん)子(こ)有(あ)るも尚(なお)総角(そうかく)

旧雨于今存幾人

旧雨(きゅうう)今(いま)に幾人(いくにん)か存(そん)す

碑石憑誰題七字
碑石(ひせき)誰(だれ)に憑(よ)つてか七字(しちじ)を題(だい)す
江都幕府一遺臣
江都(こうと)幕府(ばくふ)の一遺臣(いちいしん)
鶴髪童顔烏角巾
鶴髪(かくはつ)童顔(どうがん)烏角巾(うかくきん)
夜壑蔵舟誰負者
夜壑(やがく)舟(ふね)を蔵(ぞう)し誰(だれ)を負(お)ふか
星槎夢客独傷神
星槎(せいさ)夢(ゆめ)みるの客(きゃく)独(ひとり)神(しん)を傷(いた)む
瀾飜有舌存三寸
瀾飜(らんぽん)舌(ぜつ)有り三寸(さんすん)に存(そん)し
電抹流年過七旬
電抹(でんまつ)流年(りゅうねん)七旬(しちじゅん)を過(す)ぐ
可惜々紅園裏暮
惜(お)しむ可(べ)し惜紅園(せきこうえん)裏(り)の暮(く)れ
狂香浩態照荊榛
狂香(きょうこう)浩態(こうたい)として荊榛(けいしん)を照(て)らす


*3 借款契約

 元治元年(一八六四)三月、駐日フランス公使としてロッシュが赴任。ロッシュは、薩英戦争ののち急速に薩摩藩との関係を深めるイギリスに対抗すべく、新たな親幕政策を展開した。これに呼応する幕府側の親仏派を代表するのが当時勘定奉行であった小栗上野介と目付役の栗本安芸守である。幕府にとって焦眉の急は、軍事力の近代化であった。このため小栗は製鉄所建設を主張、フランス側の協力を求めた。ロッシュは、海軍のジョーレス提督とも相談し、製鉄所建設の主任技師として海軍技師ベルニーを推薦した。ベルニーは建設地として横浜に近い横須賀を選定するとともに、建設費の見積もりを提出した。工期は四年、一年に六十万ドルの経費を要し、総工費は二百四十万ドルというものであった。幕府はこの費用の支弁についてロッシュに相談、ロッシュは日本からの生糸・蚕種の輸出に関しフランスが独占的地位を占めることを要求するとともに、日仏両国商人による商社(コンパニー)設立についても提言した。幕府はこれを了承、フランスにおける日本総領事としてパリの銀行家フリュリ=エラールを任命した。フランスからは仏国郵船の重役クーレーが来日、幕府との折衝に当たった。

こうした経緯があり、慶応二年(一八六六)八月、幕府とフランスとの間に総額六百万ドルに上る借款契約が成立した。折しも将軍家茂が逝去、一橋慶喜が徳川宗家を継承することになり、慶喜は幕権強化のための軍制改革をめざし、武器・軍需品の購入をフランスに依頼、さらに親仏路線を推し進めることになった。



(平成27年6月9日  新井慎一 記)







幕府瓦解と渋沢栄一  連載  第二回

 幕府瓦解と渋沢栄一  連載  第一回





慶応三年(一八六七)正月十一日、パリ万博親善使節の一行は、仏国郵船アルへー号に乗船、横浜を出港した。総勢二十五人(*1)であるが、それぞれ目的を異にする二つのグループによって構成されていた。


(注解)

*1 総勢二十五人

『渋沢栄一伝記資料 第一巻』所収(四五一頁以下)の渋沢栄一による「御用日記」によれば次の通りである。


御附添役々名面左之通


御勘定奉行格

外国奉行

  向山隼人正

御作事奉行格

御小姓頭取

  山高石見守

歩兵頭並

  保科俊太郎

奥詰医師

  高松凌雲

大御番格

砲兵差図役頭取勤方

  木村宗三

外国奉行支配組頭

  田辺太一

御儒者次席

同翻訳御用頭取

  箕作貞一郎

小十人格

砲兵差図役勤方

  山内文次郎

外国奉行支配調役

  日々野清作


  杉浦愛蔵

御勘定格

陸軍附調役

  渋沢篤太夫

外国奉行支配調役並出役

  生島孫太郎

外国奉行支配通弁御用

  山内六三郎

御雇

民部大輔殿小姓頭取

  菊池平八郎

  井坂泉太郎


同中奥番

  加治権三郎

  大井六郎左衛門

  皆川源吾

  三輪端蔵

  服部潤次郎


  隼人正従者  壱人

  石見守従者  壱人

  小遣之者   三人

隼人正以下

 総計人員弐拾五人



(平成27年6月7日  新井慎一 記)






私的つぶやきとともに考える(五)



老年について



老年を重ねるにつれ、少年の日の昔に思いを馳せることが多くなった。それは何事かを行なうについても、そこに何事かの思慮をともなうことが多くなったということでもある。

古人の曰く「少年老い易く学成り難し」とは、誠にその通りと思うが、そうであるがゆえに、かえってその「学」への思いが募るのはどうしたわけであろうか。自分の場合、この「学」とは、みずからの人生や広く社会のあり方などについて考えるという意味で人文系の学問、なかでも文学や哲学、ということになる。何のことはない、これは、ドイツ文学を志した大学生当時の自分に帰るということなのかも知れない。もう一度最初から勉強しなおしたい、そういう思いが強い。それにしても残り時間は限られている。身辺整理が必要である。

唐の詩人白居易は「不致仕(致仕せず)」という諷諭詩(ふうゆし)で、「朝露(ちょうろ)に名利(めいり)を貪(むさぼ)り、夕陽(せきよう)に子孫(しそん)を憂(うれ)う」愚かさを言い、「年(とし)高(た)けては須(すべか)らく老(おい)を告(つ)ぐべし、名(な)遂(と)げては合(まさ)に身(み)を退(ひ)くべし」と、身の引き方の大切さを言っている。


出来るだけ世事から離れ、読書と思索に重点を置く日々、これが老年の理想だと、他人はいざ知らず、自分はそのように思うのである。



川のほとりで



十五歳の少年の昔
川のほとりに立って
鳥のさえずりを聞き
香しい花のかおりをかいだ


五十年が過ぎ
私のかたわらを
あらゆるものが過ぎ去って行った


いま老年になった私は

川のほとりに立って

聞こえなかったものを聞き

見えなかったものを見る



鳥もさえずらない
香しい花のかおりもない
川のほとりで



(平成27年3月15日  新井慎一 記)









私的つぶやきとともに考える(四)





大忍国仙(一七二三~一七九一)と菅江真澄(一七五四~一八二九)






読書の効用とでもいうのだろうか、思わぬところで思わぬものが結びついて新しい地平が開けるということがあるものだ。これまで大忍国仙(だいにんこくせん)和尚については、有名な良寛和尚を育てた人として、私の居住している深谷市出身の人物としては、渋沢栄一翁は別として、とりわけ優れた人物として尊敬していたが、その日常的な生活ぶりや人柄を表すようなエピソードについては知るところが少なかった。ところが『菅江真澄遊覧記』を読んでいて、この菅江真澄翁と大忍国仙和尚が直接行き逢っていることを知り、とてもうれしくなったのである。

天明三年(一七八三)の二月と伝えるが、三十歳になった真澄翁は、故郷の三河を旅立ち、信濃をめざした。文政十二年(一八二九)七月十九日、秋田角館の地で亡くなるまで、生涯にわたる放浪の旅の始まりである。三月、下伊那郡に入る。五月二十四日、東筑摩郡洗馬村に至る。七月一日、牛館村(現松本市)を経て、筑摩の御湯(みゆ)に宿をとる。ここで真澄翁は国仙和尚と出会うのである。本文を引用してみよう(引用は、平凡社ライブラリー『菅江真澄遊覧記 1』による)。




七月一日 きょうはここにとどまって、いちにちじゅう湯をあびた。温湯が滝となって落ちてくるところには、たくさん病人が集まっているなかに、法師がひとり交っておられたので、どこからかと尋ねると、吉備の穴の海の辺とだけお答えになった。宿に帰って聞くと、玉島(岡山県)の円通寺に住んでおられる国仙和尚であった。これはまた意外であった。自分の叔父である禅師と同じ法門の先輩で常に聞き及んでいた。世間でも名高い人に思いがけなくいま会えたことを喜び、何くれとなく語りあった。



真澄翁は、叔父の禅師を通じて国仙和尚のことをすでに聞いたことがあり、しかも優れた人物として認識していたようだ。当時世間に名高い人物として国仙和尚の名は鳴り響いていたものと思える。

大忍国仙は、享保八年(一七二三)、現在の深谷市岡(旧大里郡岡部町字岡)の松原家に生まれた。*参照=山口律雄著『岡部町人物誌』(平成七年・博字堂刊)。

早くに両親を失い、数え十三歳の時、近江国彦根(滋賀県彦根市)の清涼寺において全国和尚の下で得度した。のちに武蔵国南多摩郡忠生町(現東京都町田市)の大泉寺や相模国(神奈川県)愛甲郡愛川町勝楽寺の住職を務めた。明和六年(一七六九)には、備中国玉島(岡山県倉敷市)の名刹円通寺第十世となり、良寛をはじめ多数の弟子を育成した。寛政三年(一七九一)三月十八日、円通寺において遷化。享年六十九歳であった。

一方良寛は、宝暦八年(一七五八)、越後国三島(さんとう)郡出雲崎(いずもざき)に、名主兼神職の山本家の長男として生まれた。幼名を栄蔵という。十八歳の時(二十二歳ともいう)、出雲崎のすぐ西、尼瀬にあった光照寺において玄乗破了和尚の下で出家した。突然の出家であったが、その理由については詳しいことは分からないとされている。「名主の昼あんどん」と人々から蔑まれていたように、生来世事に疎く、またこれにたずさわることをいさぎよしとしなかったのであろう。栄蔵は、出家して良寛と称し、みずから大愚と号した。安永八年(一七七九)、越後巡錫のため光照寺を訪れた国仙和尚は、ここで初めて良寛と相まみえるのである。

良寛は、国仙和尚を生涯の師と思い定めたものであろう。そのまま国仙和尚に従い玉島の円通寺で修行することになる。足かけ十三年に及ぶ修行であったが、ついに良寛は悟りを開き、国仙和尚から印可を受け、さらに国仙和尚が長年愛用していた籐の杖を記念の品として授かる。それから一年後、国仙和尚が亡くなり、これを機に良寛は円通寺を去り、諸国行脚の旅に出るのであった。

さて、国仙和尚と真澄翁の出会いであるが、真澄翁は国仙和尚の宿る場所も近いということで、早速国仙和尚を尋ね、いろいろと物語りをしたのであった。国仙和尚が話すには、近年のこと、主君に仕えていたある武士がどうしたことか心の病にかかり、和尚はこの武士に対して自分の拙い歌だがと「捨し身は心もひろしおほ空の雨と風とにまかせはててき」と詠んでみせたところ、その武士はこれを三度繰り返して詠んでみて、やがて気も心も涼しくなって、再び主君に仕えることができたということであった。真澄翁はこれを聞き、その歌の末尾の文字「き」を「は」といいかえて、「すてし身は心もひろし大空の雨と風とにまかせはてては」として、その武士が返しをしたことでしょうというと、和尚は大笑いをし、近くに集まっていた僧もほほえんでいたとある。和尚の快活な人柄が偲ばれるとともに、和尚に近侍する僧の中に、あるいは良寛その人がいたかも知れないと考えると、さらにうれしくなる。読書の効用である。




(平成26年11月2日  新井 慎一 記)














渋沢栄一の父・市郎右衛門(一八〇九~一八七一)



渋沢栄一の父・市郎右衛門(いちろえもん)は、血洗島の渋沢一族の中、「東の家(ひがしんち)」二代目宗助(そうすけ)の三男・元助(もとすけ)として生まれましたが、当時一族の中でも本家筋とされる「中の家(なかんち)」が疲弊していたため、これを心配した父・宗助により「中の家」に婿入りさせられ、その嗣を継いだものです。家つきの娘えいとの間に出来たのが三男の市三郎(いちさぶろう)すなわちのちの栄一で、長兄、次兄ともに早世したため、長男として育てられました。

元助は、「中の家」の代々の当主の通り名である市郎右衛門を襲名、「東の家」からの財政的援助もあり、栄一が生まれ育つ頃には、血洗島村では「東の家」が一番の物持ち、次が「中の家」と呼ばれるようになるまでに家運を盛り返しました。養蚕と藍玉(あいだま)の製造販売を主業に、雑貨商い・質屋業などを兼ね、特に藍玉の年間売り上げは一万両を越え、渋沢家の富の源泉を成していました。のちのことですが、文久元年(一八六一)、栄一が数え二十二歳の時、どうしても江戸へ出て勉強したいという栄一のたっての願いに父の市郎右衛門も折れ、農業の閑な春先に限ってならよいということで、栄一はこの年二か月ほど江戸へ出ます。江戸下谷の海保漁村(かいほぎょそん)の塾に寄宿しながら漢学を、またここから通って神田お玉が池の千葉道場で北辰一刀流の剣術を学びますが、この海保塾では寝泊りができて、勉強を教えてもらって、さらに朝夕の二回食事が付いて、その寄宿料が月に一両で済んでいますので、渋沢家の藍玉による年間売り上げの一万両という金額がいかに大きなものであったかが分かります。

栄一は、最初この父の市郎右衛門から学問の手ほどきを受けます。栄一の自伝『雨夜譚(あまよがたり)』の中に、「たしか六歳の時と覚えて居ます。最初は父に句読(くとう)を授けられて、『大学』から『中庸』を読み、ちょうど『論語』の二まで習った」とあります。父の市郎右衛門は「四書や五経ぐらいの事は、充分に読めて、傍(かたわ)ら詩を作り俳諧をするという風流気(ふうりゅうけ)もあり」という教養豊かな人であり、「方正厳直の気質に似ず、人に対してはもっとも慈善の徳に富んで」いる人でもありました。後年、栄一はこの父の市郎右衛門を回想して「父のことは今になつて想へば思ふほど豪(えら)い非凡の人であつたと、益々敬服するばかりである」と述べ、さらに「働く方の欲は極めて深かつたが、物惜しみなどは毫(ごう)も致さず、至つて物欲には淡泊の方で、義の為だとなれば折角(せっかく)丹精して作りあげた身代(しんだい)でも何でも、之を擲(なげう)つて些(いささ)か悔ゆる処(ところ)無し、といつたやうな気概に富んだ人である」「若(も)し不肖の私に多少なりとも斯(かか)る美質がありとすれば、それは皆父の感化による賜(たまもの)であると謂(い)はねばならぬ」と述べています。

参照=『実験論語処世談(一〇)』/『渋沢栄一伝記資料 別巻第七 談話三』(二〇頁))。



 ここでは、栄一の従兄であり、学問の師でもあり、義理の兄にも当たる(栄一妻千代の実兄)尾高惇忠の撰文になる栄一の父・市郎右衛門の墓碑の一節を読むことで、気概に富んだその生き方を偲んでみたいと思います。



晩香渋沢翁墓碣銘(尾高惇忠撰文)

慶応中其子青淵君従徳川民部公留学仏国未幾幕府廃徳川氏不能送学資君深憂之遠寄書於翁謀之翁奮然約鬻家産弁之会朝廷命公帰国而事止嗚呼翁以一農夫欲挙私産任貴公子遠学大費非弁財之公私知事之軽重者悪能至此



慶応中、其の子青淵君、徳川民部公に従い、仏国に留学す。未だ幾(いくばく)ならずして幕府廃(すた)れ、徳川氏、学資を送る能(あた)わず。君、深く之を憂い、遠く書を翁に寄せ、之を謀る。翁、奮然として家産を鬻(ひさ)ぎ、之を弁ずるを約す。会(たまたま)、朝廷、公に帰国を命ず。而して事止む。嗚呼(ああ)、翁、一農夫を以て、私産を挙げて貴公子の遠学大費に任ぜんと欲す。財の公私、事の軽重を知るに非(あら)ざる者、悪(なん)ぞ能く此(ここ)に至らんや。




晩香(ばんこう)は栄一の父・市郎右衛門の雅号。また、徳川民部公(とくがわみんぶこう)は、徳川昭武(一八五三~一九一〇)のことで、この昭武は水戸徳川家に生まれ、その後御三卿の一つ清水家を継いだもので、第十五代将軍慶喜は実兄に当たります。民部公というのは、昭武が民部少輔の位にあるため、そのように称したものです。



パリ万博親善使節の代表として渡欧した時、この昭武はまだ数え十四歳の少年でした。栄一はこの昭武につき従い渡欧するわけですが、昭武には公式日程を済ました後に数年間の個人的留学が予定されていて、その留学に寄り添い、これをサポートする役目が栄一には特に課せられていました。栄一自身も何か勉強してと考えていましたが、パリ滞在中に幕府が瓦解、明治新政府の帰国命令に接し、やむなく帰国することになります。
 幕府瓦解という混乱の中で、幕府からの送金が途絶える事態となり、栄一は、昭武の留学費用をまかなうため、郷里の父親に支援を求める手紙を出します。父の市郎右衛門はこれに応えるため、家・屋敷をはじめ、持てる財産の一切合切を挙げてこれを処分することを決意しますが、栄一たち一行が急きょ帰国することになり、実際にはこのことが行われることはありませんでした。しかしながらこの時の市郎右衛門の決断は、誰にでもできるものではなく、尾高惇忠の文章は、そこに一農民を越える市郎右衛門の偉大な人間性の発露を見て、これを称えています。



(平成26年10月22日  新井慎一 記)



















私的つぶやきとともに考える(三) 秋蚕について

井上善治郎著『まゆの国』(昭和52年・埼玉新聞社刊)によれば、富岡製糸場建設事務主任である尾高惇忠が、いわゆる「秋蚕」の可能性について知ったのは明治五年(一八七二)八月のことであるとされる。尾高が富岡からの帰途、郷里下手計村に立ち寄ったところ、橋本呈次郎という人の妻が、一枚の蚕卵紙を持参して、これは深谷の五明紋十郎という人が信州佐久郡から繭を買って、この発蛾に生ませたものであり、夏蚕以降に掃き立て飼育することが出来るというのであった。尾高はもしそれが可能であれば、日本の養蚕業を大いに発展させることにもつながるだろうと、これを広めることを彼女に勧めるとともに、みずからもその研究に着手することを決意する。これはのちに「秋蚕事件」として尾高の富岡製糸場長辞任を引き起こすことにもつながって行く。

「秋蚕事件」の被告人となる成塚村(深谷市)の川田兵治らが買い取ったのは信州の風穴種とされるが、信州のどこであったのだろうか。信州ではすでに天明年間から寒さを利用して蚕の種の孵化を遅らせるということが行われていた。

『菅江真澄遊覧記 1』(2000年・平凡社刊)の「伊奈の中路」(同書115ページ以下)には、天明三年(一七八三)四月十五日、下伊奈郡山吹村のこととして次の一節がある。


 十五日 この池上氏の家を出発し、なお心おもむくままにあるいて行くと、山吹(下伊奈郡高森町)という村があった。その名にふさわしい花の咲いている垣根も見当たらない。もう散ってしまったのであろうか。

 腰に小さい籠のようなものをつけた女がおおぜい、野山の方に群をなして行った。これは桑の木の林にはいって、みづとよぶ、桑の芽ぐんだ若葉が花のようになったものをとり、蚕を養い育てるためだという。みづは瑞葉のことであろうか。この蚕の種は陸奥の商人から買いとり、このように桑の木の芽のでる時までは、早く孵化しないように寒いところにおさめておき、またはここにある山寺というたいへん寒いところの庵の法師に預けて貯蔵しておく。四月八日、釈迦降誕の仏事にこの山に大ぜいのぼって、蚕の卵をつけた紙をそれぞれ持ち帰り、埋火のかたわらにおいたり、背中に負ったりして、昼夜あたためると、どうやら春になったとでも思ってか、芥子の種の芽ばえるように孵化してくるのを、雉の羽でなではらい落とし、みづという若芽のふくらんだものを食べさせ、養うということである。


ということで、寒さを利用して蚕の種の孵化を遅らせるということは早くから行われていたようである。ここから秋蚕の飼育に至るまでには百年に近い時間を要するわけで、いわば自給自足の江戸時代の養蚕業が、明治維新を契機に、産業化された経済社会を実現していた西欧世界と遭遇することによって、新たな価値観の下にとらえなおされたことがその大きな要因となっているものと思われる。


(平成26年10月15日  新井慎一 記)