使節代表の徳川昭武に付き従うグループと、外国奉行・駐仏公使向山隼人正(*2)を頂点とする外国方のグループとである。むろん栄一は昭武に付き従うグループの一員であるが、昭武には万博関連行事への参加や各国巡歴という公的な仕事を終えた後に数年間の個人的留学が予定されており、この留学に関わる部分でのサポートが栄一本来の任務として期待されていた。また、外国方は、フランスとの友好親善を図るとともに、これ以前に幕府とフランスとの間に交わされていた六百万ドルに上る借款契約(*3)の早期実現という重大な使命を帯びてもいた。
(注解)
*2 向山隼人正
文政九年(一八二六)~明治三十年(一八九七)。諱(いみな)は、一履。字は、欣文。通称は、栄五郎、隼人正。黄村と号した。江戸本所の生まれ。旗本一色氏より出て、向山源太夫の養子となる。昌平黌教授方出役、小十人組番士、箱館奉行支配組頭、外国奉行支配組頭、目付を歴任。慶応二年(一八六六)十月、外国奉行となり、翌年五月、駐仏公使に選ばれ、従五位下隼人正に叙任されると同時に若年寄格となる。維新後、静岡学問所頭取。廃藩後、東京に出たが、官途には就かず、詩作・骨董の世界に生きた。著書に『景蘇軒詩抄』などがある。栄一は、仏国へ赴くアルヘー号船上にて、この向山や杉浦としばしば闘詩を試み、互いの無聊を慰め合った。
後年の作であるが、いま、試みに、黄村の漢詩を一つ、二つ引いて見る。
なお、その読み下しについては、深谷市郷土文化会理事で埼玉県漢詩連盟副会長の増田泰之氏にご助言をいただいた。ここに記して感謝申し上げたい。
彰義隊
戊辰五月此山中
戊辰(ぼしん)五月(ごがつ)此(こ)の山中(さんちゅう)
劫火焼天草木紅
劫火(ごうか)天(てん)を焼(や)き草木(そうもく)紅(あか)し
志士喪元甘一死
志士(しし)元(こうべ)を喪(うしな)ひ一死(いっし)に甘(あま)んじ
親臣酬主表孤忠
親臣(しんしん)主(しゅ)に酬(むく)いんと孤忠(こちゅう)を表(あらは)す
応知百計千方尽
応(まさ)に知(し)るべし百計(ひゃくけい)千方(せんぽう)尽(つ)くを
坐受三軍四面攻
坐(ざ)して受(う)く三軍(さんぐん)四面(しめん)の攻(せ)め
厲鬼于今猶夜哭
厲鬼(れいき)今(いま)于(に)猶(なお)夜(よる)に哭(こく)し
啾々万壑動悲風
啾々(しうしう)として万壑(ばんがく)に悲風(ひふう)の動(うご)く
栗本匏庵挽詞二首
髯兄与弟義相親
髯兄(ぜんけい)と弟(てい)義(ぎ)に相(あい)親(した)しみ
出処升沈五十春
出処(しゅっしょ)升沈(しょうちん)五十(ごじゅう)の春(はる)
曾愧為医長売薬
曾(かつ)て医(い)為(た)り売薬(ばいやく)に長(ちょう)ずるを愧(は)ぢ
遂能報国不謀身
遂(ついに)能(よ)く国(くに)に報(むく)いんとして身(み)を謀(はか)らず
晩年有子尚総角
晩年(ばんねん)子(こ)有(あ)るも尚(なお)総角(そうかく)
旧雨于今存幾人
旧雨(きゅうう)今(いま)に幾人(いくにん)か存(そん)す
碑石憑誰題七字
碑石(ひせき)誰(だれ)に憑(よ)つてか七字(しちじ)を題(だい)す
江都幕府一遺臣
江都(こうと)幕府(ばくふ)の一遺臣(いちいしん)
鶴髪童顔烏角巾
鶴髪(かくはつ)童顔(どうがん)烏角巾(うかくきん)
夜壑蔵舟誰負者
夜壑(やがく)舟(ふね)を蔵(ぞう)し誰(だれ)を負(お)ふか
星槎夢客独傷神
星槎(せいさ)夢(ゆめ)みるの客(きゃく)独(ひとり)神(しん)を傷(いた)む
瀾飜有舌存三寸
瀾飜(らんぽん)舌(ぜつ)有り三寸(さんすん)に存(そん)し
電抹流年過七旬
電抹(でんまつ)流年(りゅうねん)七旬(しちじゅん)を過(す)ぐ
可惜々紅園裏暮
惜(お)しむ可(べ)し惜紅園(せきこうえん)裏(り)の暮(く)れ
狂香浩態照荊榛
狂香(きょうこう)浩態(こうたい)として荊榛(けいしん)を照(て)らす
*3 借款契約
元治元年(一八六四)三月、駐日フランス公使としてロッシュが赴任。ロッシュは、薩英戦争ののち急速に薩摩藩との関係を深めるイギリスに対抗すべく、新たな親幕政策を展開した。これに呼応する幕府側の親仏派を代表するのが当時勘定奉行であった小栗上野介と目付役の栗本安芸守である。幕府にとって焦眉の急は、軍事力の近代化であった。このため小栗は製鉄所建設を主張、フランス側の協力を求めた。ロッシュは、海軍のジョーレス提督とも相談し、製鉄所建設の主任技師として海軍技師ベルニーを推薦した。ベルニーは建設地として横浜に近い横須賀を選定するとともに、建設費の見積もりを提出した。工期は四年、一年に六十万ドルの経費を要し、総工費は二百四十万ドルというものであった。幕府はこの費用の支弁についてロッシュに相談、ロッシュは日本からの生糸・蚕種の輸出に関しフランスが独占的地位を占めることを要求するとともに、日仏両国商人による商社(コンパニー)設立についても提言した。幕府はこれを了承、フランスにおける日本総領事としてパリの銀行家フリュリ=エラールを任命した。フランスからは仏国郵船の重役クーレーが来日、幕府との折衝に当たった。
こうした経緯があり、慶応二年(一八六六)八月、幕府とフランスとの間に総額六百万ドルに上る借款契約が成立した。折しも将軍家茂が逝去、一橋慶喜が徳川宗家を継承することになり、慶喜は幕権強化のための軍制改革をめざし、武器・軍需品の購入をフランスに依頼、さらに親仏路線を推し進めることになった。
(平成27年6月9日 新井慎一 記)
幕府瓦解と渋沢栄一 連載 第二回