●古代出雲大社
◆古代・出雲大社本殿の復元|季刊大林 - 大林組
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_27_idea.html
復元:大林組プロジェクトチーム
監修:福山敏男(京都府文化財保護審議会委員)
協力:出雲大社、馬庭稔(建築家)
出雲市に鎮座する日本最古の神社"出雲大社"には古来不思議な言い伝えがあった。その本殿が大昔、今の2倍の高さの16丈(48m)あったというのだ。現在の大社本殿の全高は8丈(24m)であるから、その二倍にも達する。しかし、歴史の専門家からは「古代にそんな大きな建物を造ることができたはずがない、単なる伝説にすぎない」と、信じられていなかった。そこで、わたしたちは現代の建築技術者として、そのようなものを本当に建てることができたのか検証に挑戦してみた。
 
◆出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る   2018/02/28
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/53888
考古学と古事記で巡る日本ヒストリー episode2
 「古事記」などで伝えられる日本の神話。それらの背景を考古学から迫ると、本当の〝古代〟が見えてくる。初回は、世界遺産に登録された沖ノ島と宗像大社について、そのルーツに迫った。
境内から出土した多数の巨木
語り継がれた、かつての出雲大社
「縁結び」で知られる出雲大社。その社殿は定期的に遷宮が行われるが、はるか昔は想像を絶する巨大神殿だったのかもしれない。
 それを示唆するのが、平成12年から13年にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱。3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されたのだ。それぞれの木は直径が1・4mほどで、3本括ると直径約3mにも及ぶ。
 
◆古代出雲大社高層神殿の荘厳な姿をVR/ARで体験できる ...
https://www.izumo-kankou.gr.jp/12509
古代出雲大社高層神殿の荘厳な姿をVR/ARで体験できるスマートフォン用アプリが登場! 11月16日(月)から配信開始 ...
縁結びの神・福の神として名高い大国主大神をまつる出雲大社の現在の本殿は、高さが約24メートルですが、平安時代にはその倍の約48メートルあったと伝えられています。このアプリでは、平安時代の出雲大社高層神殿が3DCGで現代によみがえります。     スマートフォン用アプリ
※アプリは、「ストリートミュージアム」を使用します。
アプリ(無料)をインストールしてお楽しみください。
2020/11/06 · アップロード元: 出雲市YouTube公式チャンネル
https://youtu.be/KMwO9o14fa8  PCで見れる
 
◆古代出雲大社48m 復元CG 遷宮 - 友森工業
http://www.tomomori-kogyo.co.jp/iz-taisya/izumo-taisya-cg.htm
□この度製作したのは、出雲大社に伝わる金輪御造営図に基づく古代出雲大社の復元図です。 有限会社友森工業が本拠とする山陰地方が、全国に誇る地域資源である 「 出雲大社 」。 その大社に伝わる古文書や平安時代の書物に記されていた 『 出雲大社は奈良大仏殿( 高さ46m ) より高かった 』 という記述。 幾度も "転倒" したという記述。 現在の出雲大社本殿の高さは24mでこれでも相当大きい( 厳島神社の大鳥居の高さが16m )ですが、高さと底面の比から言ってどう見ても転倒はしそうにない。柱の間隔と配置からして「転倒」するためには相当の高さが必要だと思われます。3本の大柱を束ねて巨大な1本としたと伝える奇妙な金輪御造営図の存在。
神話のような ”伝承” に過ぎなかったそれは、昔の人々が大げさに誇張したお話であって事実のはずがない、と受け止められてきました。古代出雲大社が現在の本殿高さ24mを大きく超える48mあったという説は、長らく学会の主流の説ではなかったのです。
 
◆遷宮の歴史 - 出雲大社
https://izumooyashiro.or.jp/daisengu/history
出雲大社の創建
出雲大社の御祭神の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)様は、神代の昔、人々のために国づくりに汗を流され、国土を開拓されて、農耕・漁撈など山野河海の生業、医薬禁厭の法などをお授けになられ、人々の日々の暮らしのすみずみに至るまでシアワセの種蒔きをなされ、いしずえを成しととのえ結ばれました。そして、国づくりなされた国土を御皇室の御祖先の天照大御神様に〝国譲り(国土奉還)〟なされ、神事(かみごと)の世界、幽世(かくりよ)という目に見えない世界、神々の世界、タマシイの世界をお治めになられる大神として、壮大な御神殿にお鎮まりになりました。
その御神殿は、広く厚い板を用いて御造営なされ、太く長い御柱は地下の岩盤に届くほどに地中深く突き固められ、御屋根に掲げられる千木(ちぎ)はたなびく雲を貫くほどと、その壮大な様が『古事記』(712)・『日本書紀』(720)に言い継ぎ語り継がれています。
 
◆古代出雲大社の高層神殿をARとVRで再現|凸版印刷株式会社 ...
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000535.000033034.html
一方、出雲大社は本殿の高さが約24mですが、出雲大社の社伝によれば、平安時代(古代)の頃には2倍の16丈(約 ...
2020/11/16 · アップロード元: 出雲市YouTube公式チャンネル
 
◆古代出雲王国と大社の謎に迫る!~古代出雲歴史博物館編~
https://www.kankou-shimane.com/mag-/07/02/rekihaku.html
皆さん初めまして!しまね観光大使の細木ふみです。
私は大社町の出身で、昨年には第一回大社文化観光試験にも合格しました。
今回のウェブマガジンは、歴史と情緒あふれる大社町と古代出雲歴史博物館を、ご案内いたします!
古代の出雲大社や、当時の生活、そして発掘された銅鐸や勾玉など古代の魅力を味わえる、古代出雲歴史博物館。
また、出雲大社の長い歴史に彩られた大社町歩きスポットなども同時に紹介していきます。
神話の時代とユニークな町並みを、同時に楽しんでみませんか?
古代出雲歴史博物館を見る
 
◆古代出雲王国の秘密を探る[出雲大社] - 島根県観光連盟
https://www.kankou-shimane.com/mag-/04/06/kodai01.html
古事記・日本書紀で出雲神話は非常に大きなウエイトを占め、古代の出雲が特異かつ重要な位置にあったことが推察されます。今回は出雲大社境内遺跡、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡等を巡り、謎に迫ります。
 出雲大社の巨大神殿
 国造り・国譲りで有名な大国主命を祀る出雲大社(島根県出雲市大社町)は、日本最古の建築様式である「大社造り」の神社として、国宝に指定されています。現在の本殿は延享元年(1744)に建てられたものですが、高さ24mと神社建築の中で比類のない規模を誇っています。
発見された心御柱
 しかし社伝によれば、本殿は中古には16丈(約48m)、上古には32丈(約97m)あったと伝えられています。2000年(平成12年)には巨大な柱根が境内で発見され、大きな話題となりました。
心御柱の実物大模型
   それは直径1m以上もある杉巨木3本を束ねて1本の柱としたもので、束ねた心御柱の直径は約3.6mもありました。
金輪御造営差図 驚いたことにその柱の構造は、古くから出雲国造千家家に伝わる「金輪御造営差図」に描かれた通りだったのです。
 
◆出雲大社 - Wikipedia     https://ja.wikipedia.org/wiki/出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。 、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
主祭神: 大国主大神
創建: 神代とされる
主な神事: 神在祭など
本殿の様式: 大社造
 
◆日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった?
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00198/  2015/04/15
かつての出雲大社本殿は15階建てのビルに相当!?
雨に濡れる出雲大社の現在の本殿。現在でも約24mの高さを誇る巨大建造物だ雨に濡れる出雲大社の現在の本殿。現在でも約24mの高さを誇る巨大建造物だ

本殿の高さ約24m、大屋根の面積で言えば180坪という破格の大きさを誇る出雲大社。古代の本殿はさらに大きく、高さ48m、または96mの高層本殿だったという説があるのをご存知だろうか?
96mというのはさすがに信憑性が疑われているが、2000年に出雲大社境内から、直径約1.35mの巨木を3本組にして1つの柱とする、1248年(鎌倉時代)に完成した巨大柱が発見されたことからも、48m説は実存した可能性が指摘されている。48mといえば、現代でも15階建てのビルに相当する高さだ。
果たしてかつての日本で、そのような木造の高層建造物の造営が行われていたのだろうか。
 
◆眠りから覚めた古代出雲大社の記憶 - 島根県
https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/esque/2007/No62/p3-4.html
平安時代(10世紀)の出雲大社本殿を再現したイメージ。その高さは16丈(約48メートル)にも及ぶ。
眠りから覚めた古代出雲大社の記憶
 神々と神話のふるさと島根。その源ともいえる出雲大社の東隣に、平成19年3月10日、島根県立古代出雲歴史博物館が開館する。同館では特色ある古代文化を中心に島根の貴重な歴史文化を分かりやすく紹介し、日本とは何か、日本文化とは何かを問いかけていく。
 縁結びの神として知られる大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)をまつる出雲大社。本殿は全国の神社の中でも随一の高さを誇り、古代には16丈(約48メートル)、あるいは32丈(約96メートル)の高層神殿だったと伝承されてきた。
 「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」。これは、平安時代に公家の子ども用に編さんされた教科書『口遊(くちずさみ)』の一節で、当時の高層建築を表したもの。「雲太」とは出雲大社本殿のこと。「和二」は大和の東大寺大仏殿。「京三」は平安京大極殿。出雲大社本殿が最も高い建築物として人々に記憶されたのである。このほかにも神話や絵図、国造家(こくそうけ)に伝わる設計図などによって、古代本殿の巨大ぶりは変わらず伝えられてきたが、証拠となる出土物はないままであった。
 ところが平成12年、出雲大社境内から3本束ねの巨大柱が3カ所から出土した。後の調査研究によって鎌倉前期のものと分かり、神話や伝承、古図が一挙に真実味を帯びた。「柱はどんな上屋を支えていたのか?」「なぜ、ここ出雲に?」。巨大柱を巡り、新たな謎解きが始まった。
 
◆三内丸山遺跡と出雲大社と王位石・天空へと延びる驚異の神殿たち
http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-769.html   2019/06/20
さて本日、まずは三内丸山遺跡と出雲大社本殿に共通点があるのでは、という記事です。 全くの妄想的推理になりますが、しばしおつきあい頂ければ幸いです。
出雲と東北北部の方言が、言語的に近縁であるということは、古くから言われてきました。
言語学者の小泉保氏は、出雲の他に石川・富山・新潟にもこの方言が分布していることから、
「かつて日本海沿岸は北の津軽から南の出雲に至るまで、東北弁が話されていたのではないか」とされました。
人類学者からも、両地域の遺伝子的な共通性が指摘されているようです。
これらのことは、瀬川拓郎著「縄文の思想」(講談社現代新書 2017)に書いてあったことです。
そして、こんな言語分布地図が載せられています。
ここでは、急な斜面と吹きさらしの強い海風のせいか、巨木は見かけません。
その代わり、こんな豊富な石材があったのです。
材質は違えど、上へ上へと延び上がろうとする意識が、出雲大社や三内丸山と同質ではないのか。
もし三内丸山も、あの巨大な構造物が祭祀目的だとしたら、最上部は神の領域でしょう。
外来者が驚嘆する高さの、巨大な建造物で祭祀を行えば、権威と神聖感あふれる宗教的シンボルになり得たと思います。
 
◆三内丸山遺跡(突然消えた縄文文化) - タヌコロリ
https://tanukorori.com/sannaimaruyamaiseki/#i-3
見晴らし台と出雲大社の共通点
さて、三内丸山遺跡と言えば、こちらの見晴らし台です。
シンボルタワーと言っても良いかもしれません。
けっこう大きくて、まるでサスケのアトラクションみたいですが。
上の写真は復元でして実物は柱跡のみ。
https://tanukorori.com/wp-content/uploads/2012/08/sannai8.jpg
でも、この柱の跡を見れば、見晴らし台の大きさがわかります。
こんな太い木があるのってくらいデカイ穴。
これを見て最初に連想したのは出雲大社の柱跡です。
出雲大社は、このレベルの柱を3本束ねて社を立てたのですから、
単純に3倍の高さまで耐えられる構造になっているとすれば、
やはり出雲大社はすごい。
この見晴らし台でさえ20mあるのですから、
出雲大社が50m近くあったという昔話は、
まったくのウソ(神話)ではなかったわけですね。
「武器」が遺跡から出てこなかったということ。
つまり縄文時代には戦争がなかったらしいのです。
とすれば日本の縄文時代というのは、
世界に誇れる古代文明の1つであると思うのです。
 
◆日本海
http://historia.justhpbs.jp/kitatuumi.html
約1万年前に更新世(氷河期)が終わり、完新世になると気候は温暖になり、海面が上昇して日本列島が大陸と分離した。そのころから、縄文時代を迎える。縄文・弥生期を通じて日本列島には多様な民賊と文化が流入した。北ツ海(日本海)や川を介して広く地域間の交流が行われていた。
・北の海っ道  
   日本海(北の海っ道)では広範に集落間の交易が行われた。湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた湖。すなわち潟(かた)が日本海側に多く点在し、潟湖が注目されるのは、付近に大規模な遺跡が集中する点にある。その地域最大級の古墳が築かれ、大規模の集落跡が形成されることも少なくない。潟湖間の交流は古代の交流・交易の拠点として発達する・
 
◆1縄文巨大石棒の謎(第10回)第 89 号 2019.09.20電子礫・蒼蒼
環状広場祖霊祠におけるニイナメ祭祀
―――令和記念 : 縄文の大嘗祭・新嘗祭 補論――
中村公省(東京都町田市在住)
はじめに
1.宮本長二郎博士論文「高床倉庫は縄文前期から存在した」
2.高床倉庫にはヒエの穂束が貯蔵されていた?
3.弥生時代の高床倉庫
4.花采列島南北の高床倉庫
5. 三内丸山遺跡の巨大掘立高床建物
6.環状広場大型掘立柱建物=モガリ場説の虚妄
7.忠生ムラ環状広場祖霊祠におけるニイナメ祭祀
 21世紀中国総研ホームページhttp://www.21ccs.jp/
 
◆殯(もがり)=荒城(あらき)
 
◆天皇・皇族の喪屋は、殯宮(もがりのみや)、荒城宮(あらきのみや)と言います。
 
◆殯       https://ja.wikipedia.org/wiki/
殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その柩を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。
現在では、天皇・皇后・太皇太后・皇太后の大喪儀の一つとして行われる。
 
◆あらき【荒城/殯】
貴人の死体を、墳墓が完成するまで仮に納めて置いたこと。
また、その所。おおあらき。かりもがり。もがり。
 
◆殯     実用日本語表現辞典
読み方:もがり
殯(もがり)は、死者を葬る(=本葬する)前に、一定期間、棺に遺体を納めて祀る儀式のこと。死者の霊を慰める、あるいは故人を偲ぶといった意味・意義のある行いである。
日本古来、殯は「貴人の弔い方」として営まれてきた。現代においては、皇室でのみ(天皇、皇后の崩御した際ににのみ)営まれるといって過言でない。
現代の通夜(つや)は、殯を短縮・形式化した習わしとも言われている。
 
◆もがり【殯】
《「も(喪)あ(上)がり」の音変化か》「荒城(あらき)」に同じ。
「今城(いまき)谷の上に、―を起てて収む」〈斉明紀〉