●【戦後70年】海軍芙蓉部隊.
◆芙蓉部隊 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/芙蓉部隊
芙蓉部隊(ふようぶたい)
三個飛行隊(戦闘八〇四飛行隊、戦闘八一二飛行隊、戦闘九〇一飛行隊)による進攻夜間戦闘機隊。
「関東空部隊」として発足した当初、自らで「芙蓉部隊」(もしくは「芙蓉隊」)と称し、沖縄戦における菊水作戦中に正式な部隊名として呼称されるようになった。
美濃部正少佐が指揮を執り、敵飛行場・艦船に対する夜襲を主戦法とした。
指揮官美濃部の方針により特攻を拒否した部隊として紹介されることが多いが、実際には部隊編成当初から特攻を戦術として採用し、美濃部の命令で特攻出撃をしたことがあり、自発的特攻による戦死者を出している。
芙蓉部隊隊員の多くも、自分達が特攻隊の編成から外されたという認識は無く、実態については異聞がある海軍航空本部があ号作戦直前に、空母で運用する艦上爆撃機や夜間戦闘機といった優先度の高い部隊には引き続き性能に優れる水冷型彗星を配備、多少の性能低下は目をつぶっても数が必要な基地航空隊に空冷型彗星を配備することに決めている。
●美濃部正 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/美濃部正
美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年(大正4年)7月21日 - 1997年(平成9年)6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官である。海兵64期。最終階級は海軍で少佐、航空自衛隊では空将。
しかし実際は、芙蓉部隊に主に配備された水冷エンジン型の彗星は、夜間戦闘機用に海軍直轄の工作庁であった第11航空廠で製造されていた生産されていた機体で、彗星の大増産計画に伴って開発された空冷エンジン型彗星33型と比較して ...

●「特攻拒否」貫いた芙蓉部隊(上):時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508a0001
2015/08/24
元飛行兵長の回想
芙蓉部隊に配備された艦上爆撃機「彗星」[部隊史「芙蓉部隊戦いの譜」より]【時事通信】
 敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉(ふよう)部隊」だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。
 死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕」「1億総特攻」といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。
 芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで名付けられた。
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◎記者(村上)は今回、無理を承知で、旧海軍史に詳しい関係者を通じ、坪井への接触を試みた。
 8月15日。70回目の終戦の日、体調がすぐれないなか、予定の1時間を大幅に超える3時間にわたって、貴重な話をうかがった。
 戦後、特攻隊や旧日本軍がマイナス・イメージで報道されるのに我慢ならなかったという。
 戦後、特攻隊や旧日本軍がマイナス・イメージで報道されるのに我慢ならなかったという。
 インタビューの最後には「国を思い、命を投げ出した仲間の思いを誰かが背負っていかないと、浮かばれません」と語った。
 記者を見送りに玄関先まで出てきた坪井は、空を見上げながらこう言った。
「今日は最高の時間だった。実は何度も泣き出しそうになったが、ぐっとこらえていたんだよ。私もあとわずかの人生だ。君が最後の取材になるだろうね」
 -そんなこと、言わないでください、と返答しようとした記者を遮るように坪井はこう言った。
 「もう、戦死した仲間の所に一日も早く行きたいんだ。そしてまた、大空を一緒に飛んでみたいんだ」◎

【戦後70年】
 海軍芙蓉部隊(上)夜襲に懸けた祖国防衛        5ページ
http://www.sankei.com/region/news/150822/rgn1508220021-n1.html
 海軍芙蓉部隊(下) 「仲間の元へ行き大空飛びたい」  4ページ
http://www.sankei.com/region/news/150823/rgn1508230014-n1.html