●縄 文 (じょうもん) 
★世界に誇る縄文文化 - ねずさんのひとりごと【2020】 | 歴史, 世界
https://www.pinterest.jp/pin/629026272942061904/
梶田睦 さんのボード「歴史」で、他にもたくさんのピンを見つけましょう。 タグ. ネオンサイン. 世界に誇る縄文文化 - ねずさんのひとりごと ネオンサイン. 保存元: nezu3344.com ...
 
★ねずさんの ひとりごと 世界に誇る縄文文化
https://nezu3344.com/blog-entry-802.html
2005年の夏休みの頃のことです。
国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
https://blog-imgs-43.fc2.com/n/e/z/nezu621/20100222125536c0e.jpg
上は、そのときのポスターの写真です。
実は、この写真、縄文人、弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。
ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
 縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
 縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
 縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。
冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものだそうです。
鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。

★第5回 ねずさんのお気に入り「世界に誇る縄文文化のお話」
限定公開
6,757 回視聴 2012/10/08 https://youtu.be/iAMC5Io7OFo
yamatotube2
チャンネル登録者数 1.13万人
ねずさんのお気に入り 「世界に誇る縄文文化のお話」縄文人のイメージってどんな感じでしょうか。衣服を着ていないと思いませんか?あるいは毛皮を巻く程度のものではなかったでしょうか。ところが日本の縄文人はその時に布の着物を着ていたのです。そして、世界中の縄文遺跡から必ず発見されているのに、日本に数万カ所もある縄文時代の遺跡からは一つも発見されていないものがあります。それはなんでしょう。

★漆と縄文文化/世界に誇る縄文文化 - OCN  http://p.tl/sX40
2011年10月13日に、福井県若狭町の鳥浜貝塚から昭和59(1984)年に出土していた漆のの木の枝が、約1万2600年前の縄文時代草創期のものであることが、東北大の鈴木三男教授(植物学)ら研究グループの調査で分かった、というニュースが流れました。新聞などでご覧になられた方も多いかと思います。

★特別展「縄文―1万年の美の鼓動」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1906
国宝 火焰型土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年 新潟・十日町市蔵(十日町市博物館保管) 写真:小川忠博
https://www.tnm.jp/uploads/r_exhibition/exhibition/LIST_5546.jpg
縄文時代が始まったとされる約1万3000年前。狩猟や漁撈(ぎょろう)、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では「縄文の美」をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な「美のうねり」をご体感ください。

★縄文文化
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-09.html
はじめに
氷河期が終わった後の後氷期、紀元前約1万年から紀元前約500年頃の間、日本列島には縄文文化がみられた。この時代には、狩猟・漁労・採集活動が行われ、縄文土器が多量に使用された。最近の研究によると、縄文文化は日本列島の中のみで自立発展したのではなく、約1万年の間に様々な列島外からの影響を受けていたことが明らかとなった。また、当時の人々は単純な狩猟採集民ではなく、野菜類の栽培や、後には穀物の生産を行い、イヌとブタも飼育を行っていたことが明らかになりつつある。そして、現在、縄文文化の成立の問題や、北と南の文化的差異や時代的変遷が問題になっている。

★なぜ人は、歌い、踊り、演じるのか 沖浦和光さん
https://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/okiura2.html
おきうら かずてる
1927年、大阪生まれ。東京大学文学部卒業。比較文化論、社会思想史専攻。桃山学院大学名誉教授。主著に『アジアの聖と賤』『日本の聖と賤』(三部作)』(以上4作は野間宏との共著)『幻の漂泊民・サンカ』『「芸能と差別」の深層』(三國連太郎との共著)、『天皇の国・賤民の国』『インドネシアの寅さん』『日本文化の源流を探る』『悪所の民俗誌』『日本民衆文化の原郷』など多数。
神や精霊との交流が「芸能」の始まり
 今、芸能というと「エンターテイメント」をイメージする人が多いのではないでしょうか。「エンターテイメント」とは、人を楽しませる、喜ばせること。もともとは「もてなす」という意味でした。転じて、今では芸能を「見て楽しみ、日常の忙しさをひととき忘れるための娯楽」といったふうに考えられているようです。しかし、古い時代に遡ると、芸能はもっと深い意味をもっていました。
 今でもそうですが、「芸能」とは、踊る、舞う、歌うことです。その極致は、一口で言えば神々の世界と交流し、「狂う」状態に入ることです。精神が通常の状態ではなくなってしまうわけです。日常を忘れ、神のごとく非日常の世界に入る、忘我の境地。これが芸能の究極です。
 なぜ、こうした「芸能」が生まれたのか。起源はおそらく縄文時代以前、石器時代人からではないかと考えています。大自然のなかで、いわば丸裸の状態で生きていた人間は、自然の力を頼って生きていました。日が照らさないと作物が育たないし、雨が降らなければ作物は枯れ、自分たちも飲み水に困ります。そこで、畏怖をこめて天には神がいると考えるようになりました。地や山、川、海、森にもそれぞれ精霊が宿っており、大自然で起きる現象はすべて神や精霊の働きによると考えたのです。今なら気象衛星で台風だとわかりますし、大地震は地球を覆っているプレートが動くことによって起きることがわかっています。

★縄文文化の基礎知識。土器はいつ作られたのか? | 和樂web ...
https://intojapanwaraku.com/jpart/2056/
2018/07/05   和樂編集部
縄文時代が始まったのはいつ? 縄文文化はどんな文化? 縄文土器はどんな人がなんのためにつくったの? そもそも“ジョウモン”って何? 知ってるようで知らなかった基礎知識を、駆け足でご紹介します!
世界初の土器を生み出したのが縄文文化です
縄文時代のスタートは、今から約1万5000年前。日本列島の温暖化が始まった旧石器時代終盤から弥生文化の直前まで、1万3000年ほど続きました。
「縄文」の名前は、人々がこの時代につくった縄目(なわめ)文様の土器に由来します。粘土に鉱物などを混ぜた胎土で自由な形をつくり、文様をつけた後、800~1000℃の低温で野焼(のや)きする。粘土が溶けることで硬く固まるという化学変化を利用した縄文土器は、「世界最古の土器」であり、「人類初の化学製品」でもありました。

★北の縄文道民会議 Hokkaido Jomon Culture Promotion Council
https://www.jomon-do.org/
北の縄文道民会議は、北海道の縄文文化の素晴らしさを知っていただくとともに、北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録に向けて活動しています。
これは縄文時代に作られた「中空土偶」です。
北海道南部の函館市で3千500年前のお墓から発見され、造形の美しさや当時の精神性が伝わる文化遺産として北海道初の国宝に指定されています。
数千年の時を超えて、この土偶は私たちに何を語りかけているのでしょうか?

★日本の土偶はイシュタール(Inanna)だった(三内丸山遺跡)パンティをはいた女神(物的証拠)
3,751 回視聴 2014/10/25 https://youtu.be/xth7y_Eaaw8
Hiroshi Hayashi
チャンネル登録者数 4.32万人
1122(重)+1074+751+722+672+553
(ピンクのパンティをはいた女神・三内丸山遺跡)
イナンナ=シュメールの女神。愛らしくも恐ろしい。多くの男たちを堕落させ、殺した。彼女のこの世のものと思われない白い肌と、燃えるような赤い目は、彼女が右手で招いたとき、それをやり返すことを許さなかった。
(長野県茅野市の仮面の女王)
土偶はエイリアン(Dogu Clay Figures are Aliens)。その証拠と証明(The Evidence and its Proof)。縄文文明の謎(縄文土器・土偶の謎)
土偶=エイリアン説は今では常識ですが、さらにそれを深く掘り下げて証明してみました。その深く掘り下げた部分についての、アイデア、セオリーの無断、転用、転載、盗用、流用は、禁止です。2014年09月25日現在、どなたにも許可していません。リンク張りは自由にしてください。
Oct.25th, 2014
又兵衛(Matabei)
Tubestore
はやし浩司

★循環型社会縄文|青森・函館百景 2015 東奥日報・太宰治が行く
https://www.toonippo.co.jp/common/too/info/dazaikanko/19men.html
「自然と共生した循環・持続型の縄文文化」/世界遺産登録を目指す道・北東北の18遺跡
 世界遺産登録を目指している北海道と北東北の18の縄文遺跡群は、ユネスコ世界遺産センターの世界遺産暫定一覧表に記載されている。津軽海峡をはさんだ広大なエリアに存在した成熟した文化であり、いずれ高い価値が認められ相応の措置がなされることだろう。
 今から1万数千年前から約1万年続いた縄文時代。縄文時代は弥生時代へと移り変わるが、縄文人は現代日本人の直接の祖先と考えられているという。すなわち縄文文化は日本の基層文化なのである。
 「縄文時代は列島各地の豊かな自然、風土の下で、私たちの祖先が一万年以上の長きにわたって積み重ねてきた固有の歴史・文化であり、日本文化の確かな基礎をつくった」と縄文研究の専門家で、国の特別史跡・三内丸山遺跡発掘調査委員長の岡村道雄さん。

★縄文文化と先人の知恵から学ぶ、人と人とのつながり | THE ...
https://www.snowpeak.co.jp/mag-spw/noasobi/1556/
2019/06/27
縄文文化と先人の知恵から学ぶ、人と人とのつながり.
Takahito Torigoe鳥越敬仁(スノーピーク東急プラザ銀座店 副店長)
1951年に発見された、縄文時代中後期を今に伝える「樺山遺跡(国指定史跡)」は、北上市街地からほど近い場所にあり、中心にシンボル的な立石を伴う配石遺構(ストーンサークル)の代表として有名です。
この遺跡には点々とストーンサークルが配された広場、そしてそれを見下ろす小高い丘に竪穴式住居(復元)が見られますが、これらは4000~5000年前の遺跡だそうです。小高い丘に立つとのどかな田園風景と北上の市街地、その向こうには奥羽山脈の堂々たる姿という、素晴らしい眺望。この日当たりの良い南向きの斜面は、さしずめ ”閑静な山の手の竪穴式住居地” でしょうか。今も昔も、人々の住みたい一等地というのは変わらないのですね。


北の縄文文化回廊づくり

2014年11月28日 | コンテンツ番号 762

北の縄文文化回廊づくりは、平成15年の北海道北東北知事サミットの合意にもとづく、北海道・青森県・岩手県・秋田県の4道県合同の事業です。この地域に特徴的な縄文文化を「北の縄文文化回廊」として広く内外にアピールしていきます。

平成18年度は、秋田県で大湯環状列石や伊勢堂岱遺跡を代表とするストーンサークルをテーマに、秋田市と北秋田市で北の縄文文化回廊フォーラムを、秋田市、横手市、北秋田市で北の縄文文化回廊展を開催しました。
このたび、フォーラムの成果などをもとに、北日本のストーンサークルを紹介する冊子「ストーンサークル ~北の縄文文化の謎を探ろう~」を刊行しました。今後、様々な事業で配布する予定ですが、こちらからダウンロードしても見ることができます。どうぞご覧ください。
https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000000762_00/070410113400_0.jpg
画像:ストーンサークル紹介冊子の表紙
内容
・はじめに
・ストーンサークルのさまざまな形
・ストーンサークルはどの地方に多いか?
・ストーンサークルの大きさくらべ
・ストーンサークルの石の並べ方、作り方
・ストーンサークルの石はどこから?
・ストーンサークルは何のために作られたの?
・ストーンサークルを作った人たちの住まいは?
・ストーンサークルを作った人たちのマツリ
・秋田のストーンサークル紹介
・青森のストーンサークル紹介
・北海道のストーンサークル紹介
・岩手のストーンサークル紹介
・ストーンサークル以外の北の縄文遺跡
・おわりに

★沖縄貝塚文化 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄貝塚文化
沖縄貝塚文化(おきなわかいづかぶんか)、沖縄貝塚時代(おきなわかいづかじだい)は、沖縄諸島を中心とする時代区分の一つ。沖縄の歴史の文脈上では、単に貝塚時代と呼ぶ。
時代の範囲は、おおよそ紀元前5000年ごろ(前4400年)から、11 - 12世紀頃のグスク時代の始まりまでである[2]。
この記事では、時期が重なる先島諸島における先島先史時代(約4,000年前、前2000年頃 - )についても記述する。

★縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ? | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6134
2019/04/17   関裕二(歴史作家)
 ※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
 
縄文人が水田稲作をはじめていた証拠
長い間、弥生時代は「弥生土器を使用した時代」と考えられていた。しかし、考古学の進展によって、この定義が揺らぎつつある。弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、水田稲作が始まったというかつての常識は、もはや通用しなくなったのだ。縄文から弥生時代への移り変わりがグレーゾーンに入った。近年しきりに耳にするのは、「縄文と弥生の境目がわからなくなった」という話である。
縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と考えているようでは、もはや時代遅れなのだ。土器は技術が伝承され、文化は継続されるのだから、はっきりとした時代区分はできないというのが、すでに常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もある。境界線が、じつに曖昧なのだ。

★続縄文時代 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/続縄文時代
北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。
縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い。
南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 - 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。
本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が、本州の弥生・古墳文化に並行する続縄文文化である。
このときまで本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。
続縄文文化の人々は竪穴式住居に住み、狩猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行った。縄文時代と比べ、魚介と海獣の比重が大きかった。
アワ・キビ・ヒエ・ソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高い。
遺物となった道具としては、石斧、石ナイフなど多様な石器がある。
他に本州製の鉄製品が入り込み、後期には鉄器の普及が石器製作技術の衰退を招いた形跡がある。
骨角器も多く出土している。遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土数こそ少ないが、当時は盛んに用いられていたと考えられる。
続縄文時代には、北海道北部が大陸・樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になっていた。
北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる。
逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。
この時代の後期にあたる5世紀(古墳時代中期)から、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着した。
これは続縄文文化とは異質のものである。

★擦文時代(さつもんじだい)(擦文文化から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/擦文時代
北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)
この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。

★東北 ・北海道における古墳時代中 ・後期土器様式の編年 - J-Stage  仲田茂司
file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/4_109.pdf
は じめ に
1.東北南部の編年
2.関東以西との併行関係
3.東北北部の編年
4.北海道中南部の編年
 まとめ
キーワー ド
対象時代 古墳時代中~後期
対象地域 東北~北海道
研究対象 土器様式
日本考古学 第4号
はじめに
東北地方の古墳時代の土器編年は氏家和典が大綱をなして以来(氏 家1957),各地でその検証と細分が行われてきたが,辻 秀人はこの地域の古墳時代を総合的に分析して,古墳時代の始まり,5世紀後半,7世紀前葉の三つの画期を求め,それが土器にも反映されるという新しい視点を提示した(辻1989,1990,1992)。
辻の画期論は「さまざまな変化が普遍化する段階という点では正鵠をえたものであるが,普遍化に至るまで一定期間東北を襲った変化の波は,それが極めて重大な歴史的契機によって促されたものと考えられので,このような変化は始動から普遍化までのプロセスを一連の流れとして把握すべきではないかと私は考える1)。
したがって本稿では,まず辻の画期論を若干批判的に継承しながら,東北南部の5~7世紀の土器様式の変化を再検討する。

★縄文時代 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代

★神秘学全般・古代史・超古代史・宗教・古神道・人類学・民族学・宇宙史・古生物学
https://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/71f40faf4041904e4b76e1b024320e76
2012/08/30
神秘学全般・古代史・超古代史・宗教・古神道・人類学・民族学・宇宙史・古生物学○☆ESOTERICBOOKSHOP
【奇魂文庫】くしみたまぶんこ
http://www.interq.or.jp/mars/grays/pages/Book.html
当文庫は、隠された知識の探求の途上にある一群の人々に書物との邂逅の場を提供する神秘学専門古書店です。
分野は多岐にわたります。
オカルティズム、エソテリズム、シャーマニズム、チャネリング、ナチズム、近代霊学、神道霊学、天皇霊学、
陰陽道、神仙道、天台密教、真言密教、修験道、民族学、民俗学、神智学、人智学、北米古代宗教、南米古代宗教、
神託、予言、お筆先、縄文文明論、新興宗教、偽史論、エジプト学、アトランティス学、霊的進化論、霊的考古学、
創造論、霊的地質学、霊的理論物理学、数秘学、言霊学、音霊学、霊的宇宙理論、霊的地政学、霊的生物学、
霊的植物学、霊的鉱物学、霊的医学、霊的運動理論、秘教図像学、秘教言語学、秘教暗号学、UFO等。
すなわち我々の来歴自体が謎ですから、本質的な探求はすべて神秘としか言えないものに遭遇してしまいます。
そして果てしない認識作業の彼方で未知の境界を超えるべきなのです。生あるうちに為すべき事はそれだけです。

★道祖神(どうそじん、どうそしん) 日本宗教のルーツ 道祖神 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/道祖神
道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。

★鯖街道とは?/田村長
https://www.tamuracho.co.jp/sabakaidou/
2020/06/15
小浜ではよく「京は遠ても十八里」と言われ、その「遠ても」という言葉には「京は近い」という思いが込められています。鯖をはじめとする多くの海産物や物資を運び、文化交流の道ともなった街道を、近年「鯖街道」と呼ぶようになりました。田村長はその「鯖街道」起点の和泉町で創業150余年の老舗です。

★縄文人はズーズー弁を話していた - TOK2.com
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-29.html
1.「ズーズー弁」の分布
 「ズーズー弁」というのはちゃんとした方言学の用語だそうである。「ズーズー弁」では、母音イ・ウを含む音節が互いに紛れやすく、母音イがエに近く発音される。そのため、スシがススのように聞こえ、シジミがスズメに聞こえてしまう場合もある。
 さて、「ズーズー弁」といえば東北方言をまず思い浮かべるが、新潟県の越後弁や、「ズーズー弁」をトリックにした小説『砂の器』で有名な島根県出雲地方の「出雲弁」(雲伯方言)などもある。また、富山や石川は栃木や茨城の一部と同様、中間型のズーズー弁ということになっている。
 出雲弁はまわりの方言とはまったく違っており「ズーズー弁」の孤島である。名古屋と三重県や滋賀県が隣接県なのに言葉は全然違うというのに似ているかもしれない。何故、出雲に「ズーズー弁」なのか。

★ズーズー弁 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/ズーズー弁
ズーズー弁(ズーズーべん)は、一般には東北方言の俗称であるが日本語の方言学では音韻上「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)の区別がない方言を指して使われ、一つ仮名弁(ひとつかなべん)とも言う。日本語の方言のうち、多くの方言で起こった二つ仮名への統合がさらに進んだものと考えられており、四つ仮名の統合の最終的な形である。しかし、もともとこれらの方言やその起源に、何らかのベース、基層語が存在したという説もある。

★大野丸  https://ja.wikipedia.org/wiki/大野丸
大野丸(おおのまる)は、江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船。日本の国産洋式帆船として初期の例のひとつで、幕府建造の「箱館丸」などと同型である。交易に使用されたが、座礁事故で沈没した。
建造
江戸時代後期の大野藩では、藩主土井利忠の下で藩政改革に取り組んでいた。外国の技術や文化にも注意が向けられており、蘭学の研究や高島流砲術などの洋式兵術の実施につとめていた。利忠の登用した内山七郎右衛門(良休)と隆佐兄弟は、1854年(安政元年)に北蝦夷地(樺太)開拓を提案、1856年(安政3年)に幕府の許可も得られて大野藩は計画を実行することになった。安政5年(1858年)、大野藩準領ウショロ場所(鵜城郡、名好郡、北樺太ホロコタン・幌渓まで)に総督以下をもうけ、藩士を派遣して実務にあたらせた。当時、樺太は日露和親条約によって国境が未画定のままとされており、幕府は樺太を含めた蝦夷地の開拓事業者を募集していた。なお、樺太全土が雑居地とされたのは慶応3年(1867年)の樺太島仮規則締結後のことである。
 
★蝦夷  https://ja.wikipedia.org/wiki/蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。

★アイヌ語と日本語の中に残る「縄文語」ーその128 : アイヌのこともっと知りたい
https://urespa21.exblog.jp/30156259/
2018/11/10
生産活動に見る縄文と弥生ー81 (通巻第432号)
 kanciwetunas 「流れの速い川」という語句が、 tunas (速い)という語彙の深く意味する所を理解するための、大きなヒントになると私は考えている。それは、 tunas という音(おん)の直接的な解剖(かいぼう)によって明らかにされるものでなくて、その周辺の、一見して余り関係の無さそうなアイヌ語の語句や、時には異なる言語である大和言葉の中にキラリと光る真実のかけらが遺(のこ)されているのかも知れないのだ。
▽ 大和言葉に、私には気になって仕方の無い音(おん)の集団が有る。それは、「つな・つん」などのアルファベットで書けば、「 tun 」で綴(つづ)られる発音を含む幾つかの語群である。それは、動詞や名詞や形容詞といった語彙から、なかなか辞書には登場しない、擬態語や擬声語を含む広い範囲にわたる語彙の集団である。「つなぐ・つな・つんつん・ツーン」などが、この語彙集団のメンバーでなのだが、これらの語群に共通する観念に、あなたは思いあたる所があるだろうか。

★最強祝詞:ひふみ祝詞ををマスターし、1日3回唱えよう!天の岩戸を開き、本当の自分(=天照大御神)を現わしましょう。❶
https://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=19291803&id=1961576013
2017/07/17
【1】 ひふみ祝詞とは?
『ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ』
❶ひふみ祝詞は日本語の一音も重なることがない四十七音の清音(濁音、半濁音を除く)を祝詞にしたもので、「ひふみ神言」とも呼ばれ、日本語のもつ言霊の力で、唱えるだけで私達に大きなパワーを与えてくれると言われています。
❷また、「ひふみ祝詞」は最も浄化力が強い祝詞の一つと言われています。私達は、怒りや悲しみなど人のマイナス感情だけでなく、「このままではいけない」とか「こうしなければいけない」などといった、ありのままの自分の存在を否定するエネルギーに日々さらされていますが、こういった負のエネルギーを祓い、パッと清々しいエネルギーに変えてくれる祝詞と言われています。
❸岡本天明さんの『日月神示』に登場するこの「ひふみ祝詞」ですが、キの巻 第11帖 (268)には、下記のように書かれています。
一二三(ひふみ)とは【限りなき神の弥栄】であるぞ、
一(ひ)は始めなき始[ミクロ(極小)]であるぞ、ケは終りなき終り[マイクロ(極大)]であるぞ、
【神の能(はたらき)】が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。
一二三は【神の息吹】であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、 一二三着よ、一二三食(お)せよ、
始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、 一二三は祓ひ清めぞ、 祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。 
一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、(渦巻)であるぞ、 (渦巻)であるぞ。  
皆の者に一二三唱へさせよ、五柱 御働きぞ、八柱 十柱 御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、 意露波(いろは)ぞ、 判りたか。
三月十四日、ひつ九ノか三。 

★ひふみ祝詞の意味 現代語訳 -平等社会を実現するおまじない- 太祝詞 布都能理斗   https://ameblo.jp/hirohito33/entry-11873697982.html
唱え方奏上の仕方
ニギハヤヒ誓願文 ひふみ祝詞 千田寛仁訳文
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<ひふみ祝詞>
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ
(ふるべゆら ゆらゆらと ふるべ)
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各自唱えるときには思い[こころ]を清浄にする
ひ  光が生まれた
ふ  水素が太陽風で降り注いだ
み  水が定着した 海が出来た
よ  命の世界が生まれた
い  原始生命体は
む  空気の発生によって単体で生きられなくなった
な  生き続けるために
や  ミトコンドリアが
こ  原始生命体を取り込んだ
と  男女、陰陽、生命が生まれた 同時に生命の死もはじまった
も  それらは互いに睦みそむき合い睦み広がり
ち  太陽の恵み
ろ  めぐらし以って
ら  あらゆるものが
ね  根本から
し  まったき
き  生まれ
る  どんどん満ち足りていく
ゆ  水蒸気ののぼりあがるように
ゐ  どんどん新しい命が生まれ
つ  集合して
あ  分散する
ぬ  そしてそれぞれの種子種類が定着してきて
そ  母なる星から
を  他の星にも分散して
た  増えていった
は  なかでも最も成長した人間種は
く  困難を克服するため自発的に真理を究めていった
め  よく研究して
か  栄える方法をみつけた
に  加えて
う  この大宇宙を
お  治めていった
え  その支局に
に  加えて
さ  中より発生した生命が
り  人間生命をより改造した
へ  結果命は短くなり
て  支配がうまれた
の  あらゆる機能が
ま  そのまま
す  まことに
あ  原点[長時間の命]に
せ  もどるには
ゑ  結果短くなった命を
ほ  他の星の発生とを鑑みて森羅の万象[分裂と結合][鉱物研究][如意の研究]
れ  礼を以って[大切に]研究しよう 
け  行ゆくが良い
ん  (無声音・念じる)彼岸を遂げますように

ふ  ことはない
る  憂慮する
べ  いきましょう
ゆ  わきあがれ
ら  すべてが
ゆ  わきあがれ
ら  すべてが
と  そしてさらに
ふ  ことはない
る  憂慮する
べ  いきましょう
 
すべてが わきあがれ 憂うることはない いきましょう
すべてが わきあがる 憂うることはない いきましょう
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恐れることは無い、行きましょう行きましょう彼岸の果てに
フレーフレー、の意味

★木魚 - Wikipedia    https://ja.wikipedia.org/wiki/木魚
木魚(もくぎょ、杢魚とも)とは、仏具・楽器の一種である。
木魚は、読経をするときに打ち鳴らすことで、リズムを整える。また、眠気覚ましの意味もあり、木魚が魚を模しているのは、眠るときも目を閉じない魚がかつて眠らないものだと信じられていたことに由来する。
禅宗や天台宗、浄土宗などで用いられる。浄土宗では木魚の使用が禁じられた時期もあったが、その後念仏を唱えるときに使用されるようになり、念仏を邪魔しないために裏打ち(いわゆるバックビート)で木魚を打つ慣わしとなっている。

★おりんの選び方 – 種類・注意点 | 仏壇・仏具のことなら「いい仏壇」
https://www.e-butsudan.com/guide/156/
2018/03/24
おりんというのは、仏壇に置かれていて、棒で叩くと甲高く澄んだ音が出るお椀のような形をしたものです。小さいころに楽器のように何度も鳴らして怒られたことがある、という方もいるのではないでしょうか。

この道具の呼び方は宗派によって少し違いますが、ここでは「リン」や「おりん」と呼びます。おりんはなんのためにあるのか、正しく鳴らす方法はどうなのか、どんな種類があるのかなどを説明していきますので、選ぶ際の参考にしてください。
メモリアル仏壇
目次
1.おりんとは
2.おりんの種類
3.おりんの鳴らし方
4.読経の際に鳴らす
5.おりん選びの注意点
6.おりんのお手入れ方法
7.おりんはどこで購入できるのか
8.まとめ

★鈴 (仏具)(Wikipedia)   https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴_(仏具)
鈴(りん、れい、英: Singing bowl)とは、仏具の1つである。
「鈴」(りん)とは、仏具の1つ。「お鈴」(おりん)ということもある[1]。「錀」とも書く。「鈴台」などとともに用いる。

★縄文時代の土の鈴 - 茅野市ホームページ
https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1748.html
2018/12/03
縄文時代にも楽器があります。八ヶ岳山麓でも多数見つかる有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、太鼓の可能性がある土器です(近年ではすっかり酒造りの道具説が有力ですが)。
土製の笛もあり、動物の形をかたどったものもあります。東北地方でよく見つかります。穴の数はまちまちですが、穴が吹き込み用の穴ひとつしかない場合でも、吹き込む角度を変えると音の高低が変わるものもあるようで、メロディーを奏でていたかもしれません。
八ヶ岳山麓では、土製の鈴が見つかることがあります。茅野市内では、「縄文のビーナス」が出土した棚畑遺跡で土製の鈴らしいものが何点か見つかっていますが、より完全な土製の鈴が長峯遺跡で見つかっています。見た目はおまんじゅうみたいで、なかに粒が三つ入っていて、まわしてみると確かに音が出ます。
ぶら下げて鳴らすような形ではなく、手に持って振るなどしないと音が出ないため、遠くまで響かせることはできなかったと思いますが、縄文時代の意外な奥深さを感じることのできる資料ですね。
同じ長峯遺跡から出土した顔面把手付土器の顔面把手部分は、中が空洞になっていて、しかもひとつ粒が入っています。振るとカラカラと粒が転がり動きます。これも鈴のような効果があったかもしれません。茅野市内では、米沢の一ノ瀬遺跡出土の土偶頭部の破片の一つが、内部が空洞で粒が入っています。山梨県の釈迦堂遺跡にもこのような資料があります。
当館で提供している土鈴(どれい)の体験をしてみようという方、このような実際の鈴を思い描きながら体験されてみてはいかがでしょうか。
(参考文献:山田光洋1998『楽器の考古学』)

★二種の銅釧 - 市原市   -前篇 北旭台遺跡出土の有鉤銅釧-  木對和紀
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
はじめに  
 市原市を含む南関東一帯は、弥生時代後半から古墳時代前期にかけて、銅釧(どうくしろ)と呼ばれる青銅製のブレスレットが大変流行した地域でした。全国的に見てもまれな有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)が6遺跡6点、帯状円環型銅釧(おびじょうえんかんがたどうくしろ)が14例50点も発見されているのです。
 今回はまず市原市から出土した1点の有鉤銅釧について、これまでの研究成果(おもに木下尚子氏の論考(木下1996))に基づき位置づけてみたいと思います。
現在全国で33遺跡83点(瀧瀬2006に追加)の出土例が知られる有鉤銅釧のルーツは、沖縄周辺に生息する大きな巻き貝、ゴホウラ(下写真)の貝殻を縦に輪切りにした「貝輪かいわ」までさかのぼります。この貝輪は、弥生時代前期に北部九州地域で出現したのち、中期後半頃になって「ゴホウラ製立岩型貝輪」として盛んにつくられました。

★有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)出土地 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/437260
福井県
鯖江台地の南側、いわゆる長泉寺山丘陵の東側斜面にある。出土品(有鉤銅釧)の内容から弥生時代後期の墳墓遺跡と推定されるが、一部は公園整備のため削平されている。一般に、銅釧…
福井県鯖江市長泉寺町1丁目
鯖江市指定
指定年月日:20150428
記念物
昭和31年(1956)、西山公園の旧登り口に近い標高約25.6m付近の桜の木に施肥のため根本を約30cm掘り下げたところ、銅釧9個が出土した。そのうち、8個は東京国立博物館所蔵、1個は鯖江市まなべの館所蔵。銅釧出土後、遺跡については正式な発掘調査は実施されていない。その後、付近は公園整備が実施され、遺跡は一部が残るのみとなった。

★「木乃伊」と書いて「ミイラ」と読ませるのには、どういういわれがあるのでしょうか?
https://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0127/
A

まず「ミイラ」ということばですが、これは17世紀ごろから用例がある日本語で、語源的にはポルトガル語から来ていると言われています。一方、「木乃伊」というのは、これはもともと中国語です。『大漢和辞典』によりますと、14世紀の後半に陶宗儀(とうそうぎ)という人が書いた『輟耕録』(てっこうろく)とい本に、ミイラの詳しい作り方(?)が出ていて、その末尾に「異民族の言葉で木乃伊と言う」とあります。
そこで問題は「木乃伊」の語源ということになりますが、これは一般には、英語のmummyとか、オランダ語のmummieから来ていると言われています。素養がないのでオランダ語の発音は存じませんが、英語のmummyはマミーのような発音です。一方、現代の中国共通語では、「木乃伊」はムナイイのような発音になりますから、当て字としてはちょっと遠いような気もしますが、陶宗儀という人は南方の人だったようですから、あるいは中国南部の方言音では、ぴったりくるのかもしれません。
この「木乃伊」という表記が、中国からもたらされた書物によって日本に伝わり、そこへやってきたポルトガル人から「ミイラ」という音が伝わって、両者が結びついた結果、「木乃伊」を「ミイラ」と読むことになったのでしょう。

★ミイラの語源は、没薬(ミルラ)ではなく瀝青(ムンミヤ)であるという話。
https://55096962.at.webry.info/201001/article_29.html
2010/01/26
まずは、英語ではミイラを「Mummy(マミー)」ということを思い出していただきたい。
オランダ語ではモミイ。実は日本でも最初は木乃伊と書いてモミイと読んでいた。
「ミイラ」は本来、香料である没薬(現在はミルラ)を指す言葉で、今でいう乾燥した遺体は「モミイ」だったのである。
これらの言葉の語源は、アラビア語ではムンミヤ。ムンミヤは瀝青をあらわす言葉である。

★樵 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/
樵(きこり、木樵(しょうふ))とは、森林の樹木を斧などにより伐採すること、もしくはそれによって生計を立てている者を指す。樵夫(しょうふ)や杣夫(そまふ)ともいう。昔話などにもよく登場する職業である。
「木伐(こ)る」というラ行四段活用動詞(「木」と「伐(こ)る」との複合動詞)の連用形「木伐り」からの転成名詞と考えられる。「伐る」は、「木を切る/伐採する」の意味。
ごくわずかに名字として用いられる場合もある。

★杣工(そまたくみ/そまく)  https://ja.wikipedia.org/wiki/杣工
古代から中世にかけて杣(そま)において伐採や製材に従事した者。
杣人(そまびと)・杣夫(そまふ)とも。
近世から近代にかけては、林業従事者一般を指して単に「杣」と称するようになった。

★国栖 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/国栖
国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く。
大和国
『古事記』神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また『日本書紀』応神天皇 19年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている。
常陸国
『常陸国風土記』には同国の国巣は「つちくも」「やつかはぎ」とも称したとある。
    「―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)」〈常陸風土記〉とある。

★かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは? | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6143
2019/03/20   関裕二(歴史作家)
  一度、教科書から消えた縄文時代
ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。
なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を掴んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。
しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。
その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。
たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。
神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。