◆「南京大虐殺」は捏造だった - BIGLOBE
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm
南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為と虐殺を行なったのはむしろ中国兵たちだった

当ページ著者・久保有政へのインタビューが米国の軍事ジャーナル”Veterans Today”に掲載されました!
https://www.veteranstoday.com/2018/06/16/nanking-massacre-interview-with-arimasa-kubo-and-moteki-hiromichi-part-ii/
「南京大虐殺」とは?
 1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。
 この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。
 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
 南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
 日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
 日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。
 しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。
 南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。

以下はその詳細です。

 
◆「南京大虐殺」は中国軍の仕業だった 南京入城時の内外紙の報道から検証した本当の歴史
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55155
2019/01/09
 中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。

 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。

 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。
 
◆南京事件の証言 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件の証言
日本人による証言
東京裁判
東京裁判に出廷した日本人証言は宣誓した上で証言し、かつ検察官による反対尋問が行われた。なお、中国人証人に対しての反対尋問は行われていない。
    上海派遣軍法務官兼検察官の塚本浩次は「私の処断した事件の中に将校は四、五人いたと思うが、その他は兵卒による散発的な事件が大部分であった。罪種は主として掠奪、強姦であり、傷害、窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶している。殺人も二、三件あったと思うが放火犯を処断した記憶はなく、また集団的虐殺犯は取り扱ったこともない」と証言した。
    中支那方面軍参謀の中山寧人は当時情報収集を主務としていた。中山は「南京に数回行ったが、世に言われるような大事件は、当時聞かなかったし、また見たこともない。」「巡察の際見た二箇所の死体はいずれも軍人の死体であり、南京の城内でも城外でも、民間人の死体は見たことがない」と証言。また南京事件を聞いたのは終戦後であるとし、南京事件なるものは、次の4つに区分して考える必要があり、
    1)市民に対する虐殺事件は「絶対にそういうことはない」、
    2)俘虜の虐殺は「誤り伝えられた外に、これもない」、
    3)外国権益、特に財産に対する侵害は一部にあったが、中国兵がやったのか日本兵がやったのかは不明である、
    4)婦女子に対する不法行為および掠奪は「小規模においてはあったと考え、はなはだ遺憾に思う」と宣誓供述書で証言した。
    中澤三夫第16師団参謀長は「日本軍人による物資取得の事実は、憲兵から少数の通報を受けた。しかし、住民の逃亡とともに資材もほとんど搬出されており、家屋も空家同様のものが多かった。従って組織的、集団的に掠奪したという事実は全く聞知しないし、勿論司令部として、かかる不法行為を命令し、默認し、許容した事実は、全くない。中国の戦場における掠奪、破壊は大部分が、退却する支那軍に続いて挺身闖入する窮民の常套手段である、ということを私は掠奪の被害者である支那人から直接聞いている。(略)南京で日本軍によって計画的な強姦が行われたという事実は、全くない。少数の散発的な風紀犯はあったが、それらはすべて法に従って処罰された」と証言。
    松井石根大将・中支那派遣軍司令官は「当時、自分が我軍将兵の軍紀風紀の粛正、その他右目的達成のため執った諸般の処置については、先に証人中山寧人が詳細に証言しているので、再説はしない。自分の南京占領に対する周到な配慮に拘らず、占領当時のこうそうたる状態における、興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく、これは自分のはなはだ遺憾とするところである。ちなみに南京陥落当時、自分は南京を去ること略々140マイルの蘇州で病臥中で、自分の命令に拘らずこれら暴行が行われたことは知らず、また何等の報告に接せず、17日南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて、即刻厳格な調査と処罰をなさしめた。ただし、戦時における支那兵および一部不逞の民衆が、戦乱に乗じて常習的ノ暴行掠奪を行うことは周知の事実であって、南京陥落当時の暴行掠奪も支那軍民の冒したものも、また少なくなかった。これを全部日本軍将兵の責任に帰そうとするのは、事実を誣いるものである。(略)南京陥落後昭和13年2月まで上海に在住したが、その間、12月下旬南京で若干の不祥事件があったとの噂を聞いただけであって、何等このような事実について公的報告を受けたことなく、当法廷で検察側の主張するような大規模な虐殺事件に関しては、1945年終戦後東京での米軍放送によって、初めて聞き知ったものである(略)南京攻略戦闘に際して、支那軍民が爆撃、銃砲火等によって多数死傷したことはあっただろうけれども、検察側が主張するような、計画的または集団的虐殺を行った事実は断じてない」と証言した。東京裁判で松井は不作為の責任を問われBC級戦犯として処刑された。
  
虐殺があったとする証言
当時、実際に従軍した元日本軍人、外交官、報道記者などの証言が多数存在する。ただし、虐殺数や目撃した現場が証言者によって違うことに注意。
 
◆【歴史戦WEST】南京事件「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす「士気」と「規律」、中国匪賊の「蛮行」
https://www.sankei.com/west/news/150511/wst1505110006-n1.html
2015/05/11
 「南京事件」はあったのか、なかったのか-。昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされ、いまだに犠牲者数や存否をめぐって論争が続く南京事件。中国側が「30万人」と主張する犠牲者数は、日本国内では支持する有識者はほとんどいないものの、国を挙げた中国側の執拗(しつよう)な取り組みによって30万人説が国際的に一人歩きしている側面もある。事実はどうだったのか。南京攻略戦から78年を経て、新たに明らかになった元将校の日記や手紙からは規律に満ちた日本軍の様相が浮かび上がる。反日姿勢を強める中国側の喧伝にはますます疑念を抱かざるを得ない。(歴史戦WEST取材班)
 
◆音を立てて崩れ始めた「南京大虐殺」の嘘 虚構が虚構が生き残る道は中国の政治的主張のみに
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55242
2019/01/22
習近平国家主席は就任後に日本糾弾のための国家記念日を3つ設定した。
中でも南京事件を一段と強調し、12月13日を「『南京事件』国家哀悼日」としたのをはじめ、南京大虐殺記念館は約1年かけて、10年ぶりの大幅な見直しを行い、2017年12月にオープンした。
強弁で「写真撤去」も隠蔽
 最初のリニューアル(2006~07年)では、1985年のオープン時から日本の研究者らが南京事件と無関係であると指摘していた「連行される慰安婦たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」など3枚の写真が撤去された。
 リニューアル・オープン直後の2008年1月、犠牲者30万人の表記は旧日本軍の「非人道性」を強調しているとして、上海の日本総領事館総領事が日本政府の「問題意識」を南京市幹部らに伝え、見直しを求める申し入れを行う。
 それから11か月後、「産経新聞」(2008年12月17日・18日付)が『中国の日本軍』(本多勝一著)や『ザ・レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン著)などで日本の残虐行為として紹介され、国内外で誤用されてきた3枚の写真の撤去を確認したことに触れている。
 
◆南京事件論争 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件論争
南京事件論争(ナンキンじけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた。
論争史
戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えたが、以降は事件への関心は薄れた。
1971年朝日新聞で本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平や鈴木明との間で論争となった。
1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えたという報道がきっかけで起きた第一次教科書問題で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった中国から抗議を受け、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した。
1989年の偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。

否定派は[誰?]1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し、新しい論客東中野修道と佐藤和男らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった。

海外では[どこ?]中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された。
英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている。
否定派[誰?]は、後述するように中国側の誇張をプロパガンダとして厳しく批判している。
 
◆南京虐殺の虚構
https://blog.goo.ne.jp/misky730/e/f77f85acdcac169ff9010ea55e227527
2007年01月27日 | 支那事変
「パール判事の日本無罪論」を書かれた田中正明氏が、平成6年に南京事件について講演されその内容が本に書かれています。
    真説・南京攻防戦
    さて、これから南京事件についてお話し申しあげます。
    これが南京の城壁でございます(南京の地図を指しながら)。この面積はどのくらいあるかと申しますと、南京は首都ではありますが、極めて狭いのです。東京世田谷区の五分の四の広さです。世田谷区よりも狭いのです。東京で言うと大田区、都市で言うと鎌倉市の大きさ、四十平方キロメートルです。私はここへ何遍も行きましたが、中華門から氾江門という揚子江へ出る門。これが幹線道路です。中山路。中山というのは孫文の名前です。この山(紫金山)に孫文のお墓、中山陵があります。
    南から北まで歩いて一時間半で行けます。これが横の幹線道路。この中山門からこの漢中門まで歩いて一時間で行けます。こういう狭いところです。これだけ憶えておいてください。
    十二月十三日が陥落の日です。昭和十二年十二月十二日に、西南の城壁の一角に日の丸の旗を立てます。南の各門が破れたのは十三日の朝でございます。松井大將は十二月九日の朝、飛行機でビラをまいて、「この中には女・子供もおり、外国の権益もある。開城して平和降伏をしなさい。十日の正午まで待つ。十日の正午までに、返事がなければ総攻撃する」。唐生智軍に勧告しました。
 
◆百人斬り競争 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/百人斬り競争
百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争(支那事変)初期、大日本帝国陸軍将校の野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったとされる行為である。
戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。
今日、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。
また、遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一の勝訴、原告敗訴が確定している。
 
◆「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(1/5)
http://agora-web.jp/archives/1428492.html
2012/02/04   渡邉 斉己
1月30日の産経新聞に、30日富山で行われた日教組の教育研究全国集会において、日中戦争の南京戦で報道された日本軍の“百人斬(き)り”を事実と断定して中学生に教える教育実践が報告された、との記事が掲載され、ネットでも話題になっています。この事件が冤罪であることはほぼ確実ですので、事実とすれば、何と不勉強なことかと思い、事実を確認してみました。

次は、その部分の記述内容です。
 
◆百人斬り競争/単なる作られた武勇伝 【賢者の説得力】
http://kenjya.org/sonota4.html
南京攻略戦の時、日本軍将校2人が日本刀で、
中国人を百人斬る競争をしたという。
●「百人斬り競争」の2人の少尉は、それぞれ歩兵砲小隊長と大隊副官の役職についており、戦場で自ら日本刀を振るうはずはなく、また日本刀で続けて何人も斬れるわけはない。さらに一方の少尉はこの競争が行われたとされる時期に負傷で入院していた。
この「武勇伝」は、紙面に花を添えるために捏造されたものだった。ところがこの2少尉は終戦後にこの新聞記事を根拠として中国に連行され、南京軍事法廷で死刑判決を受け銃殺刑に処せられた。

●実は、毎日新聞が1989年に発行した「昭和史全記録」にも、「この記事の百人斬りは事実無根だった」と記されている。しかし2人の遺族が、毎日・朝日・本多に対し名誉毀損の訴訟を起こした第一審判決(2005年8月23日)では、「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの…創作とまで認めることは困難である」として請求を全て棄却した。 
       《原田実 新潮45 2006/4月号》
 
◆南京大虐殺の百人斬り報道 戦意高揚のための明らかなホラ話
https://www.news-postseven.com/archives/20150226_301893.html
2015/02/26
 戦後70周年を迎える今年、中国はあの手この手で日本に歴史戦を仕掛けてくるだろう。しかし恐れる必要はない。ここに並べた最低限の知識さえあれば、中国が喧伝するデマなどあっさり論破できる。
 中国のウソの中で「最大のヒット作」(評論家・黄文雄氏)が南京大虐殺だ。
 中国は、1937年12月13日に日本軍が中華民国の首都南京を占領後、6週間以内に30万人以上もの中国人を殺害したと主張するが、当時の南京の人口は20万人しかいなかったうえ、虐殺報道で証拠とされた写真も加工や事実と異なる点が認められた。
 デタラメぶりは、南京大虐殺の象徴とされる逸話「百人斬り競争」でも示される。
 南京攻略の最中、陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉のどちらが先に百人斬るか競ったという記事が1937年11月から計4回にわたり、東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された。
 
◆いまだ「百人斬り訴訟」の結果を否認し続ける yamamoto8hei
https://apeman.hatenablog.com/entry/2019/03/19
2019/03/19
 yamamoto8hei というツイッターIDを持つ、偽ユダヤ人ワナビーのことは当ブログの読者の方ならご存知かもしれません。かつて「一知半解」というハンドルで当ブログの「百人斬り」関連記事にコメントしていたこともありました。「て、ゆーか一知半解?」とか薄ら笑いが湧きますよね。実際には無知無解なやつですけど。

さてこいつは、右翼が画策した「百人斬り」訴訟が結果的に両少尉の戦争犯罪を裏付ける結果になったことを否認し続けてきたのですが、最近になって一層珍妙なリクツを振り回すようになったので、「歴史修正主義というのがいかにデタラメな主張か」を記録するため、とりあげてみたいと思います。

まずは昨日来の yamamoto8hei の駄ツイートをば引用します。