戦争秘話になる話である。
日本が大東亜戦争をどうしてどんな心境で戦ったか。
日本人は日本の色々な事をみんなで共有したら良い国になる。
知れば知るほど面白くなる国である。
まだまだ 沢山あるよ。
 
◆レイテ島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/レイテ島
レイテ島(レイテとう、Leyte)は、フィリピン中部、ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置する島。人口は約190万人、面積は7,214km2。
 
太平洋戦争の戦地
https://ja.wikipedia.org/wiki/レイテ島#太平洋戦争の戦地
レイテ湾とその周辺海域は、太平洋戦争中に世界海戦史上最大の激戦となったレイテ沖海戦の舞台として有名である。またダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍部隊は1944年10月20日レイテ湾に上陸、ここからフィリピン奪回の第一歩を記した。(なお23日にダグラス・マッカーサーがセルヒオ・オスメニャとともに上陸。)その後フィリピンにおける決戦・レイテ島の戦いが全島を戦場として起こったが、日本軍は物資補給・兵員補給の輸送船が途中で沈められ、補給を断たれた8万人以上の兵士が戦死や病死・餓死でほぼ全滅するという惨敗を喫した。生き残った兵士はセブ島などへ個々に脱出したが、生還率はわずか3%ともいわれる。また数多くの島民が日本軍とのゲリラ戦に参加したほか、戦闘の巻き添えで一般人も犠牲となった。この凄惨な戦いは大岡昇平のレイテ戦記ほか戦記小説に詳しい。島内には、マッカーサーのフィリピン帰還・上陸を記念したモニュメントが上陸地点のパロ海岸にあるほか、日本軍兵士の慰霊碑が各所にある。
 
◆レイテ沖海戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/レイテ沖海戦
レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月20日から同25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台にして、日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で交わされた一連の海戦の総称でである。フィリピン奪回を目指して侵攻するアメリカ軍を、日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。

レイテ沖海戦という呼称は、アメリカ軍が揚陸地点に定めた作戦上の要地であるレイテ湾に因んでいるが、戦争当時の日本はフィリピン沖海戦と呼んでおり[注釈 1]、後にアメリカ側の呼称を採用した。双方合わせて20万人以上の海上兵員が参加し、日米共に稼働艦艇と航空機を総動員した膨大な数の兵器が投入されている事から史上最大の海戦と称される事もある。

この6日間の海上戦役は、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦で構成されており、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行なわれていた。また、神風特別攻撃隊が始めて組織的に運用されている。連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだ決死の海上展開は「捷一号作戦」として発動された。日本海軍の艦隊戦力はこのレイテ沖海戦を最後にして事実上消滅し、10月20日にレイテ島に上陸したアメリカ軍のマッカーサーは、25日に同島に司令部を設置した。
 
◆【実録】レイテ沖海戦【涙なしでは見られない】
436,870 回視聴
https://youtu.be/jikdhcMcLB0
野球ぽんたろう
2017/08/19 に公開
神風特別攻撃隊実戦初導入の戦い

レイテ沖海戦/ 最後の艦隊決戦
https://youtu.be/cd1Q2t6DuPM

実録 レイテ沖  海戦
https://youtu.be/cpBlaRM61vU

 
◆占守島(しむしゅとう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6
占守島(しむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島(о.Шумшу)、英語表記はShumshu。サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある。

元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。

島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。

現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。
 
◆占守島の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島#占守島の戦い
1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった。
ソ連軍の占守島上陸はポツダム宣言受諾に伴う日本軍の武装解除の最中、8月18日未明に開始され、急遽、武装解除を取り止めた日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。戦闘は一旦はソ連軍を上陸地点である竹田浜にまで追い落とす状態で推移していたが、日本側は第5方面軍の戦闘停止命令に従い、軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。
その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。
2014年以降、サハリン州の調査団が占守島を調査。日本兵およびソ連兵の遺骨を収集した。2015年11月までに27柱が日本側に引き渡されているが、身元が特定できたのは1柱のみ。2016年7月にも調査は行われ、遺骨や日本軍のカノン砲が収集されている。
2017年7月19日、民間団体約20人がカムチャツカ半島からヘリコプターで激戦地の四嶺山を訪れ慰霊祭を実施。現地の慰霊祭は、2005年に日本政府主催で行われてから12年ぶりの開催。
 
◆占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org › wiki › 占守島の戦い
占守島の戦い(しむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
ソ連は8月9日に日ソ中立中立条約を一方的に破棄して対日参戦。ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。
 
◆占守島の戦いとは?降伏後の日本に攻め込んだソ連軍の凶行を迎え撃つ
https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/08/21/103392
2019/8/21
昭和二十年(1945年)8月21日は、占守島の戦い(しゅむしゅとう)が終結した日です。
何となく聞き慣れない地名ですが、それもそのはず。
この島は現在日本の領地ではありません。ロシアの実効支配下にある島です。
まずは”どんな感じの地理的特徴を持ったところなのか”というところからお話していきましょう。
 
目次
    明治時代の樺太・千島交換条約で日本の領地となっていた
    ソ連の作戦が開始されたのは日本降伏後の8月17日
    少しは警戒していたが、基本的には攻め込まれまい
    マッカーサーへ頼むも、あのスターリンが……
    ソ連軍の方が圧倒的に被害大
 
◆占守島の戦いとは?降伏後の日本に攻め込んだソ連軍の凶行を迎え撃つ
https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/08/21/103392
昭和二十年(1945年)8月21日は、占守島の戦い(しゅむしゅとう)が終結した日です。
何となく聞き慣れない地名ですが、それもそのはず。
この島は現在日本の領地ではありません。ロシアの実効支配下にある島です。
まずは”どんな感じの地理的特徴を持ったところなのか”というところからお話していきましょう。
 
目次
    明治時代の樺太・千島交換条約で日本の領地となっていた
    ソ連の作戦が開始されたのは日本降伏後の8月17日
    少しは警戒していたが、基本的には攻め込まれまい
    マッカーサーへ頼むも、あのスターリンが……
    ソ連軍の方が圧倒的に被害大
 
◆日本を救った「占守島」の真実 - iRONNA
https://ironna.jp/theme/435
終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。
昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、
樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。
北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。
 
終戦後の「忘れられた戦い」
https://ironna.jp/article/2414
 日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。
 しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。
 かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。
 樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。
 
◆池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い
https://ironna.jp/article/2415
『歴史街道』 2015年12月号
「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰)
 今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。
 占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。

 この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。

 しかし今年の夏、「終戦70年」を契機として、いくつかのメディアが占守島の戦いを取り上げた。また、11月上旬には、今年に占守島などで見つかった日本軍将兵の遺骨が、ロシアから日本の遺族団へと返却されたことも報じられた。

 そして、ここにきて再び、地上波のテレビでも占守島の戦いが取り上げられるなど、メディアの注目も高まっている。11月22日(日)19時54分から放送される『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』では、実際に占守島をルポ取材。番組についての記者会見で、ジャーナリストの池上彰氏は「(もしも日本軍守備隊の活躍がなければ)北海道北部に『日本民主主義人民共和国』ができていたかもしれない。まさに、教科書に載っていない20世紀の歴史」だと指摘した。