◆律令制 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。
日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない。
中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。
そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある。
 
◆古代日本の地方官制 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/古代日本の地方官制
古代日本の地方官制(こだいにっぽんのちほうかんせい)
日本国の古代の時代において施行されていた地方行政の制度である。
701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。
地方官制のはじまり

大宝律令制定以前の地方官制は、以下の通りである。
県(アガタ)
    4世紀~6世紀頃?
・『古事記』成務段
 「大国小国の国造(くにのみやっこ)を定め賜ひ、亦(また)国々の堺、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定め賜ひき。」
・『日本書紀』成務紀
 4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」
 5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)
 成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたる。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられている。また成務天皇自体の実在性が疑われている。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできる。
    名前の由来は、「吾が田」であろうと思われる。
 越前・美濃・尾張以西に分布し、畿内や西国など、瀬戸内海周辺の西日本の拠点に集中している。倭の六県や、河内国・山背国の「県」は大王の料地としての性格が強く、平安時代になってもその伝統はつづいた。

県(コホリ・コオリ)
6世紀後半~7世紀中?
・国造(くにのみやつこ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0
国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
訓の「みやつこ」とは「御奴(みやつこ)」または「御家つ子」の意味とされる。
 
◆国造【くにのみやつこ】
大和朝廷の地方官。〈こくぞう〉ともいう。初め各地方の〈くに〉の支配者であったが,国家統一後は地方官として制度化された。当時の〈くに〉はほぼ後世の郡に当たる広さで,国造は大化改新後おおむね郡司となった。改新後は郡の上に国が置かれたが,天武期にはこの国ごとに1人の新国造を置き,旧国造のもっていた司祭権を掌握させた。→国(くに)
→関連項目県|阿蘇氏|姓|豪族|評|国造本紀|氏姓制度|先代旧事本紀|那須国造碑|大和政権
 
◆くにのみやつこ【国造】
古代の地方官豪族。大化前代の国造(氏姓国造)は,5~6世紀にわたって伴造(とものみやつこ)との対応で制度化されたと考えられる。伴造が職能集団の宰領者であるのに対し,国造は国(くに)と呼ばれる地域の支配者で,古い形の地方長官ともいえる。多くは各地域の小君長の後であり,中には4世紀から5世紀にかけて盛行した大和朝廷の地方制度である県主(あがたぬし)が国造になったものもある。彼らは,ほとんどが自分の勢力圏となっている地域の地名を氏とし,臣(おみ)・連(むらじ)・君・公(きみ)・直(あたい)・造などの姓(かばね)を称した。
 
◆旧国名と都道府県名
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旧国名は、大化の改新(645年)後に定められ、のちに五畿七道(畿内を構成する5つの国と7つの地方)として整備された。
都道府県名は、廃藩置県(1871 年)で3府302県がおかれたことに始まり、1881年ごろまでに今の形に統合 された。
 
◆戦国資料 - 旧国名・地名|戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
http://sengokumap.blog.shinobi.jp/place-name/entry-23
2019/02/13
戦国資料 - 旧国名・地名
戦国時代の令制国地図
<飛鳥時代~明治元年(1868年)> ※奈良時代に一部改変
http://file.sengokumap.blog.shinobi.jp/sengoku-place-name.jpg
五畿七道(ごきしちどう)
古代日本の広域行政区分
http://file.sengokumap.blog.shinobi.jp/gokisitidou.jpg
 
◆江戸時代以前の都道府県の名前(旧国名)一覧 読み方や別称を各地方ごと ...
https://fullspec.club › カルチャー
2018/05/18
現在は47ある日本の各都道府県。日本国内における行政区画の中でも最もメジャーなのが都道府県ですが、これが出来たのは明治時代であり、それ以前の行政区分は令制国(律令国)が用いられていました。

都道府県が完全に浸透した現在でも、令制国の名はまだ色濃くわたしたちの身近にありますよね。例えば、我が鳥取県でも神話である「因幡の白兎(しろうさぎ)」の因幡とか、中国地方を代表する大山はその美しさから「伯耆富士」と呼ばれている伯耆というのは、令制国時代の鳥取県の地名でもあります。他にも戦艦の名としても有名な「大和」や「武蔵」、ブランド牛の名で知られる「近江」や「飛騨」、さらに時代劇などで有名な吉良上野介や大岡越前の上野と越前など、全て令制国における地名なのです。

ここではそんな令制国における地名を、現在の各都道府県のどこに相当する地域なのかをご紹介したいと思います。なお、ここでご紹介する令制国は、特に断りのない場合は平安時代から江戸時代末までの区分であり、奈良時代以前や戊辰戦争後のものは反映していません。

あなたの故郷は江戸時代以前は何という名前だったのでしょうか。
目次
1.北海道・東北地方:北海道、青森県、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県の旧国名
2.関東地方:群馬県・栃木県・茨城県・埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の旧国名
3.甲信越地方:山梨県・長野県・新潟県の旧国名
4.北陸地方:富山県・石川県・福井県の旧国名
 
◆旧国名一覧 - Cyberhome
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~osk.an/pat/doc_html/old-japan.htm
国. No. 道, 国名, 読み, (現在の)主な都市, 備考.
 1, 畿内, 山城, やましろ, 京都・宇治.
 2, 大和, やまと, 奈良・橿原.
 3, 摂津, せっつ, 大阪・吹田.
 4, 河内, かわち, 東大阪・八尾.
 5, 和泉, いずみ, 岸和田・阪南.
 6, 南海道, 紀伊, きい, 和歌山・尾鷲......
 
◆旧国名の由来 - BIGLOBE
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/sub16.html
地名の語源の研究は昔から行われてきて、その多くが、地形に由来することがわかってきている。旧国名の語源につい
ても同様であるが、多くの研究がなされてきているにもかかわらず、複数の解釈を並列させて述べるものが多く、かえって
読者に混乱を与えているように見受けられる。
 そこで、筆者は、浅学を顧みず、旧国名の語源解釈に取り組み、自身で納得できると思われるものを作成することに
した。主な参考文献は次の通りである。語源解釈は難しいので、疑念は残っているが、このような形に整理したものは
少ないので参考になるものと思う。ご意見をいただければ、幸いである。
 
◆藩の一覧 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/藩の一覧
藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。
    凡例
        藩名は緯度の高い順に表記した。
        地方分けは、便宜的に現在の県別に用いられているものを援用した。
        藩の別名や支藩については括弧書きして藩名の横に記した。
        支藩の記事は原則として本藩の項目内に記されているためこの一覧からはリンクされていないが、国主格など重要な藩についてはその限りではない。
        設立後、すぐに廃藩となった藩などは記されていない場合がある。

北海道地方
樺太
    大野藩(大野藩準領ウショロ場所)
大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。
・北蝦夷地開拓と大野丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/土井利忠#北蝦夷地開拓と大野丸
安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行った。
内山隆佐は利忠以下藩論をまとめて応募し、自ら探検調査団を率いて渡島半島を調査した。
蝦夷地開拓は結局大野藩へは下命されなかったが、大野藩はあきらめずに今度は北蝦夷地(樺太)開拓の許可を求めた。
安政5年(1858年)、幕府は利忠に北蝦夷地西浦の警固と開拓を命じた。大野藩準領ウショロ場所である。これには船が必要ということで、建造したのが藩船大野丸であった。
大野丸は長さ23m、幅7m、2本マストの帆船で、この年7月に進水し、敦賀湾を拠点として北方貿易及び警備兵運送に従事した。
ただし、北蝦夷地開拓は北緯50度まで行ったものの、予想に反して利益が出ず、開拓は行き詰まった。
幕府は利忠に対し、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助した。
幕府は北蝦夷地の警固をそれほど重視していたのである。
しかし、元治元年(1864年)内山隆佐の死と大野丸の遭難沈没が重なって開拓は頓挫し、明治元年(1868年)に大野藩は明治新政府に樺太を返上し、開拓に終止符を打った。
    
    安房勝山藩(敷香に藩士や領民を遣わし漁場を開いていた)
    松前藩
 
◆大野丸(おおのまる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/大野丸
大野丸(おおのまる)は、江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船。
日本の国産洋式帆船として初期の例のひとつで、幕府建造の「箱館丸」などと同型である。
交易に使用されたが、座礁事故で沈没した。
 
◆図説福井県史 近世34 大野屋と大野丸(2)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=31&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjthqPtkLnjAhV2yIsBHdNuBVgQFjAeegQIJBAB&url=http%3A%2F%2Fwww.archives.pref.fukui.jp%2Ffukui%2F07%2Fzusetsu%2FC34%2FC342.htm&usg=AOvVaw2IOq-bHtPKAbAan1oLTzLE
34 大野屋と大野丸(2).
△内山隆佐 大野市歴史民俗資料館蔵, 内山七郎右衛門
△内山七郎右衛門 『内山良休翁略伝』 大野市歴史民俗資料館蔵, 大野藩蝦夷地探検概要図
△大野藩蝦夷地探検概要図 拡大図 44KB. このような改革に大きな影響 ...
 
◆幕末の大野藩・大野屋 - 株式会社平成大野屋
https://www.h-onoya.co.jp/cp/about/bakumatsu.php
大野市が起こした「平成大野屋事業」は「大野藩大野屋」の存在が大きく影響しています。
大野藩大野屋は、幕末に藩直営の商店として開業しました。
大野の特産と他地域の特産の交易によって藩の財政に大きく貢献した、江戸時代の「第3セクター」です。
江戸時代において「商い」は商人の生業です。
武家である大野藩が「大野屋」をつくったのには大きな理由がありました。
当時の大野藩には莫大な借財があり、財政が苦しい中での苦渋の決断だったのです。
その時の藩主「土井利忠(どいとしただ)」は、後世に名君として名をのこし、大野市のシンボル「越前大野城」がある「亀山」には銅像が建てられています。
その利忠を補佐し、「大野屋」の実質的な経営者だったのが、家老「内山良休(うちやまりょうきゅう)」です。
藩の財政を立て直す拠点として、期待を一身に背負っていた大野藩大野屋。
その経営はどの様なものだったのでしょうか。
 
◆「文化のまちづくりと地域再生」 ― 平成大野屋の取り組みについて ―
http://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_tokushima29/jichiken/3/3_1_04.htm
1. 北陸の小京都 越前大野
大野盆地全景
 大野市は、福井県の東部に位置し人口約4万人で、北方と東方を1,000メートルを越える大起伏で石川県南部に続く加越山地、西方を数百メートルの中起伏の越前中央山地、南方を越美山地に囲まれた盆地で標高170から232メートル、面積約540平方キロメートルあります。
 気候は、夏は高温多雨、冬は寒冷多雪と内陸盆地方特有の気象で、年間を通じて降水量は比較的多く、清らかな水に恵まれた地域となっています。
 また、盆地内には、東から九頭竜川、真名川、清滝川、赤根川が南から北に併流しており、北端で九頭竜川にすべて合流しています。
 これらの川は、長い年月の間に山や谷をけずり、土や砂を運んで扇状地や河岸段丘を形成し、流域は古代から多くの人々が住みやすい場所となっていました。
 
◆土井利忠 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/土井利忠
土井 利忠(どい としただ、文化8年4月3日(1811年5月24日) - 明治元年12月3日(1869年1月15日))
越前国大野藩の第7代藩主。
利房系土井家7代。
官位官職は従五位下、能登守。没後従三位を贈られる。
第5代藩主土井利義の長男。
母は岡部長備の娘。
正室は戸沢正胤の娘。
継室は戸田氏庸の娘。子は土井利恒(三男)。号は欽斉。
藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を挙げ、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君といわれる。
 
◆大野市 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/大野市
大野市(おおのし)は、福井県の東部に位置する市である。
福井県内の市町の中では最大の広さを持ち県面積のおよそ5分の1を占める。
市街地はかつての城下町の面影を強く残し、越前の小京都として知られる。
春分の日から大晦日の間に七間通で開かれ400年の歴史を持つ七間朝市は、大野の観光名物である。
冬季は市全域が特別豪雪地帯に指定されているほどの降雪量があり、九頭竜ダムなど大規模な人工湖も点在するが、その膨大な水量とは裏腹に名水と謳われる市街周辺の湧水や河川伏流水は道路などの消雪のためにも汲み上げられ、水不足が懸念されるといった皮肉な状況となるため、河川表流水を含めた総合的な水利用のあり方を模索している。
市の花‎: ‎コブシ
市長 ‎: ‎石山志保
市の木‎: ‎ブナ
面積‎ : ‎872.43km2
総人口‎: ‎31,827人; (推計人口、2018年10月1日)
歴史

天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に進攻。
一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる亀山に大野城を、その東麓に城下町を造り始めた。
これが現在の大野市街地の起こりである。以後今日まで、大野市は奥越地方の中心地として栄えてきた。
山頂にそびえる天守と短冊状に区切られた町並み、中世から近世にかけて築かれた寺院が甍を連ねる寺町通り、城下町誕生のころから続くとされる七間朝市など、400年を超える歴史を彷彿とさせる景観を今も色濃く残していることから、「北陸の小京都」と呼ばれている。
1888年4月8日、大野市(当時は大野町)で1000棟以上を焼失する大野大火が発生。
以後、この日にあわせて消防訓練が毎年行われている。
また、2008年には40年ぶりに消防隊のラッパ隊が復活した。