先生、自由な世界なんてありますか?
今回は少し教育とはずれてしまうテーマかもしれませんが、「自由」という概念、妄想について少しだけ考えてみたいと思います。これまで自分が教育を受けてきたなかで、「何でも自由に発言して」とか「自由に描きなさい」などと甘い口調で言われたことを真に受けた結果、いくつもの失敗を繰り返してきました。自由に描いてよいと言われて森林を真っ赤に塗りつぶした絵画を提出した際には先生からげんこつを食らい、自由に発言してよいからと生徒総会で生活委員会の存在意義とは何かと質問したら、直後に先生に「場をわきまえろ」と説教を食らう。これが現実。果たしてその現実とは何か? 現実とはつまり、自由とは妄想でありそこを意識することはとことん不自由である、というパラドックスです。これは幸せという概念にも同じようなことが言えます。自由になりたい、幸せになりたいと思い願い続けているような人は、それがために不自由で不幸な感情を継続せざるを得なくなります。本当の意味で自由を生きている人は自由という概念を意識していおらず、幸せとは瞬間的なステートの連続体であり実感し得るものではない概念に近しいものなのです。これは難しい話ですね。 10代、20代の夢多き若者たちがひたすらに自由を追い求め、モラトリアム状態を継続させた結果、圧倒的虚無感に陥ってしまうのは上記のことが自由という概念の構造的な原因といえるでしょう。では、教育現場では子供たちに対してこの厄介極まりない自由という概念についてどう教えていくべきなのでしょうか。自由だから何でもしてよい、ルールなんか無視してよい、周りのことなんて一切気にしなくてよい、そういうことではないことはなんとなくわかりますよね。 ひるがえって教育現場における自由について考えるとき、この言葉、概念に対しては注意深くあるべきであり、もっと細分化し抽象化して捉えられるべきでありと思われます。そして、その場合には「発想と想像の自由」に尽きると思っています。実際の行動や発言は社会で生きていくうえでは必ず制限があり、抑制があり、ルールが存在します。他人を傷つけることは許されず、法を犯すことも当然許されず、そんな自由はこの世の中どこにも存在しません。人間はその言動において自由を制限されているからこそお互いの平和と均衡を保てているわけです。 他方、人間に許される最も素晴らしい自由とは「発想と想像の自由」です。自分で何かを考え表現することは100%自由であり、何人たりともその領域を侵すことはできません。ですから、教育者たるものはその100%の自由の楽しみ方と素晴らしさを子供たちに伝えていくべきだと思います。その時に最も重要なことは教育者が自分の常識にとらわれない、固執しないことだと考えます。森林が赤で描かれたとして、教師の常識ではそれはあり得ないと感じたとしても果たして生徒にとってはどうなのでしょうか。絵の出来としての評価は別としても、森林は赤である、という発想の自由は最低限許容されなくてはなりません。それが教育のあるべき姿だと思うのです。 1+1=🍎、と記した生徒がいるとします。算術的には全くの不正解です。ですが、その生徒の記憶の中では1, + ,1 という記号の連続が🍎と紐づいた結果なのかもしれません。大人では絶対にありえない発想です。こういった自由さから人類は次なる進歩の道を切り開いていくのだと頼もしく見守っていくのが教育者のあるべき姿だと考えます。